古典学エッセイ

長坂道子:白樺林のシュンポシオン

 半世紀余りの人生で、さまざまな職種を体験してきたが、その中の、とりわけ思い出深い一つについて書こうと思う。というのも、そのときの雇用主が、おそらくこの学会会員の皆様方にはなんらかのつながりや印象をもたらす人であるはずであり、またその仕事自体が誠に興味深いものであったからだ。

 大学の二回生の夏休みを皮切りに、3年間にわたり、私は夏の数週間を軽井沢の山荘で過ごした。といっても、それは優雅な避暑のためではなく、労働のためであった。ギリシャ哲学の故・田中美知太郎先生(当時はすでに退官され、京大名誉教授であられた)は、京都鹿ケ谷のお宅とは別に、中軽井沢に別荘をお持ちで、夏の二ヶ月ほどをこの山の家で過ごされるのを習いとされていた。奥様はご同伴されず、身の回りのお世話をする人間が必要だった。父が田中先生と相識であった関係で、すでに一回生の頃から、目のご不自由な先生のために京都のお宅でプラトンのテクストを黒マジックで大きく書き出すようなお手伝いをしていたが、その働きぶりと共同生活に向きそうな陽気さを評価されたのかどうか(笑)、「夏に少々手伝ってもらいたいのだが」という打診を受けたのが二回生の春の終わり頃。食事の支度や洗濯、掃除などを担う、山荘の「お手伝いさん」としてヘッドハントされたのである。

 申し訳程度の台所のついた下宿生活をはじめてまだ一年少々。自らの世話もろくにできない19歳を抜擢した先生の度胸も大したものだが、この山荘で代々お手伝いを勤めてきたのは、私のような学生(主に大学院生)が中心だったことを後で知った。夏に暇を持て余していて、健康で、煮炊きの真似事がなんとかできる人材は、それなりに需要があったということである。 普段は先生とお手伝いの私、それに助手として連れて行った妹や友人との三人暮らしであったが、時折、京都から、東京から、客人が訪ねてきた。出版社の人であったり、ギリシャ哲学のお弟子さんたちであったり、評論家とか作家といった肩書きの方々であったりした。この山荘は非常に民主主義的で、お手伝いの私たち小娘も、こうした客人たちと同席し、食事を共にすることを許されていた。お手伝いたちは張り切って旧軽井沢まで遠征して美味しいパンを仕入れ、普段より少しよそ行きのご馳走を食卓に並べた。客の誰かが手土産に持参したワインを開けるようなこともたびたびあった。

 食卓で交わされる会話は、哲学や文学から時事問題(向田邦子さんが飛行機事故で亡くなったという知らせも夏の軽井沢で知った)、業界のゴシップに至るまで多岐にわたっており、19歳の小娘が知り得ないリファレンスに満ち溢れていた。「はっはっはっ」と客人たちが声をそろえて笑う箇所でも、その意味がわからず、せっせとお代わり用のサラダをふるまったり、飲み物を補ったりしてお手伝いさんの役割に徹することで、無知の気まずさをごまかしていたようなところがあったかもしれない。まれに「あなたはどう思いますか」と先生やお客の誰かに尋ねられれば、どぎまぎする以外の返答を知らず、けれど若い娘を窮地に陥れるほどの意地悪な人はもちろん皆無で、中にはさり気なく話題を変えたり助け舟を出してくださるなど、徳に厚く、機微に細やかな方もおられ、こんな大人になりたいな、と若い娘をして思わせたものだった。

 書物を通じて知ることはもちろん、実体験を通じて知ることに関しても、日本生まれ日本育ちの19歳は、あまりに無知であった。地中海の青さを見たこともなければ、リュウマチとリズムを“rh”という空気の多そうな音でつなげる感覚も持ち合わせず(ましてやフランス語ではリズムから唐突に“h”が抜け落ちてしまっているとは露程も知らず)、糸杉の木陰、オリーブの苦味、同性どうしの愛、いずれも想像してみることすらかなわないのであった。

 あのときの食卓でふるまわれたワインは、いったいどこの国のものだったのだろうか。コルクの開け方を、不肖お手伝いは知っていたのだろうか。そのワインのお相伴にあずかり、お手伝いの身分も忘れて心地よい酩酊状態に身をうずめながら、それでも私は先生とお客さんたちの話に懸命に耳を傾けていた。知らない箇所はすべて想像と妄想で埋めながら、断片と断片をつなぎ、ヴィジュアルなイメージを思い浮かべていた。子供の頃、教会で耳にしたグレゴリア聖歌や聖母の祈りを「誤読」「誤聴」したときと同じような霧の中に遊んだ、軽井沢の夏。

 「シュンポシオン」というタイトルの書物を相前後して読んだのもこの頃だった。一つはアテナイ、もう一つは、どこか海辺の避暑地を舞台としていて、そこにはギリシャ・ローマ古典学の教授が登場するのではなかったか。浅はかな理解しか得られないにしても、「なにか高いところへの憧れ」というものが人を高揚させることを知ったあの夏は、いわば「私のシュンポシオン」の始まりだった。人と人とがつながり、重なり合い、言葉が飛び交い、酒が酌み交わされ、笑いが共有されるあの食卓は、信州の白樺の木立の間から、まだ見ぬ地中海の青さへと、確かにすでにつながっていた。

 軽井沢のあの夏の日々以来、シュンポシオンという営みを、地球のあちこちで、さまざまな友人たちと共にしてきた。無知の闇には小さなろうそくが灯り、開けたワインの瓶は無数になり、オリーブや糸杉は、いつしか親しく付き合う相手となった。

 余談ながら、そんなわけなので、駅前にアウトレットの店々が林立する昨今の軽井沢にはどうもがっかりするのである。四半世紀以上に及ぶ異国暮らしで地中海が近くなり、代わりに軽井沢が遠くなってしまったのかもしれない。

 (長坂道子。エッセイスト。スイス在住。京大文学部中世哲学卒業)

  

(写真説明)
左:鹿ヶ谷でも軽井沢でも午前中のお散歩を日課にしておられました。軽井沢でのお散歩に同行し、白樺林の足下に気を配りながらお話し相手をするのも、お手伝いの欠かせぬ役目でした。

右:この日のシュンポシオンの主は田中美知太郎先生、客人は今林万里子氏、山口義久氏、(お手伝いの先輩・フランス文学の)大内和子氏、お手伝いは筆者と妹。ディオニュソスの神に揃って盃を捧げたのでしたでしょうか。