古典学エッセイ
佐藤孝志:西洋古典学会のこと、そしてプルータルコスの政治倫理のこと
1 学会というものは前々から私の憧れの存在であった。
私は49歳の時縁あって、それまで勤めていた中央官庁を辞めて、自分の郷里富山県高岡市の市長に就任し、さっそく文化面でも魅力のある都市づくりに励むこととなった。天平時代の万葉歌人で万葉集の編者とも言われる青年大伴家持が越中の国守として今日の高岡の地に赴任してきて多くの秀歌をこの地で詠んだことから、全国初の万葉集の専門施設「高岡市万葉歴史館」を開設し、館長や学芸員には専門の学者の方になってもらった。 そうすると万葉学会、上代文学学会、古事記学会など毎年何らかの学会が高岡で開催され、これらの学者、研究者の皆さんがわが高岡に集まり、研究発表や懇親会などで楽しそうにされていたのを目の当たりにして、学会ってなんと素晴らしい存在かなと思っていたものである。そう言えば、日ごろお世話になっているお医者さんも、来週の週末とその前後は学会があるので休診にすると喜々としておっしゃる。 思うに、学会は精魂込めた自分の研究発表や他人の研究発表の聴取によって互いの切磋琢磨を図り、また、学生時代の恩師や同僚・同じ分野の研究に励む仲間との(あるいは、ひょっとしてかって憧れの対象であった人との)年に1度の再会を楽しむ場だと思われる。
2 私は高校での世界史の授業と日比谷野外音楽堂でのギリシア悲劇の観劇以来人間というものがあふれる古代ギリシア文化に惹きつけられ、土曜や日曜もないような非人間的な生活の続く官庁勤務時も、その後の市長在職時も、少しでも余暇が出来れば心のなごむ古代ギリシアの古典類(と言っても翻訳によるが)に親しんだ。16年間の市長職を終えてからは、再就職を求めずに好きな古代ギリシアのことに打ち込みたいと、最寄りのカルチャーセンターで、古典ギリシア語、古代ギリシアの歴史・哲学などの講座を受講しだした。
そのうちに日本西洋古典学会の存在を知り、全くのアマチュアのギリシア好きにすぎないものの、ある先生のご推薦をいただいて、2008年本会に入会することとなった。今年で入会以来8年となるが、毎回初日の第1発表者から2日目の最終発表者に至るまでずっと聴講している。ある先生から君はいつも熱心に聴いているねと言われたが、実は中抜けもできない程、古代ギリシア・ローマのどの分野の発表も聴いていて楽しく、かつ、勉強になるのである。ただ私には専門的・学問的な知識がないので、疑問点が残っても発表者に対する質問はいまだに出来ないでいる。
3 今年の西洋古典学会は、八王子市南大沢という極めて環境の優れた武蔵野にある首都大学東京で行われたが、「プルータルコスと指導者像」というシンポジュウムがあってその中で初めて発言した。ただし、質問ではなくて、プルータルコスの示した一つの政治倫理を自ら実践した者としての発言であった。
ローマ帝政時代の後1~2世紀に生きたギリシア人プルータルコスは、若い頃中期プラトン主義の哲学を学んだものの、一流の哲学者ではなく、また一流の歴史家や一流の文人でもないが、類い稀な知的好奇心と収集意欲によって、「英雄伝(対比列伝)」や「倫理論集」など膨大な著作を著わし、その中で政治指導者の実践倫理や処世上の教訓みたいなものを後世に残している。英雄伝は私の中央官庁勤務時からの愛読書の一つであり、特に政治指導者にとっての重要な倫理である「手に対する支配」については記録と記憶にとどめて、これを自らの公務遂行時の鏡として実践してきた。
河野与一訳の「プルターク英雄伝」中「アリステイデス伝」(岩波文庫第5巻)には、「(前480年のサラミスの海戦の勝利を導いた)テミストクレスが前にいるアリステイデス(テミストクレスと同時代のアテネの政治家・軍人。「清廉の士」として知られる)に向かって、将軍の偉大な特性は敵の計略を一歩先に見抜くことだと言ったのに対して、アリステイデスは『それは成程必要なことであるが、真の将軍にふさわしい立派なことは自分の手に対する支配(賄賂を受け取らないこと)だ』と言ったことがある」との件(くだり)がある。
テミストクレスは当時から金銭に汚いことで知られ、たとえばペルシア戦争時にペルシア軍に加担したエーゲ海の島々から多額の金銭を徴収して、これを私腹に入れたと言われている。
これに対して、同第3巻「ペリクレス伝」には、「ある時ソフォクレス(悲劇詩人)がペリクレスの同僚の将軍として一緒の船で出かけた際(前440年小アジア西岸のサモス島への遠征時)、一人の少年を褒めたので、ペリクレスは『将軍という者は手ばかりでなく、目も綺麗にしておかなければならない』と言った」とある。
同じく「ペリクレス伝」には、「将軍の任務は1年であるのに、ペリクレスは15年(前443~429年)にわたって引き続き一つの支配と権力を保ち、金銭を以って買収されることなく身を持ちとおした」との記述もある。
ペリクレスは権力掌握の期間が長かったにもかかわらず、金銭には極めて潔癖で、宴会や公務外での一般市民との接触も避けたとのことである。(これは人間とかく酒が入ると乱れがちとなるので、自分の威厳を保つ意図もあったと思われるが。) キモンは自分の豊かな富を使って民心掌握に努めたのに対して、ペリクレスは私財を投ずることなく、陪審員手当・観劇手当の創設やデロス同盟金庫資金の流用によるパルテノン神殿の建造工事によって民心掌握に努めたようであるが、これは別に自己の私利を図ったものではなかろう。
洋の東西・時代を問わず、およそ公務遂行に当たる者や政治権力を行使する者は自己の身辺を清潔に保たねばならないし、何らかの疑惑を招くような行為も慎まなければならない。市長職についても、市長選のためには、また、公務の遂行に当たって公私の別を明らかにするためには(たとえば私用に公用車を使用しない、私的な用途に公金を使わないなど)、ある程度の政治資金を要するが、貧乏人の私としては、後援会組織を通じて広く資金協力をあおがなければならない。この場合でも、私は市の公的事業の契約者になる建設業関係などの方には資金をあおがないとか、そもそも後援会に入って頂かないように配慮した。
市長職の就任早々、春秋の叙勲で受賞した市民の皆さんや職員人事で昇任した人たちが大勢何かしらお祝いみたいなものやお礼みたいなものを持参してわが家を訪ねて来るということがあった。何事も始めが大事。中身が何であるかは分からないが、私はすべて受け取りを辞退した。私の留守中に妻が辞退したにもかかわらず一方的に置いて行かれた方には、すぐにお返しした。「今度の市長は固すぎる、金品を一切受け付けない」との噂がすぐに立ったが、私にとっては良いことであった。
こうして4回の選挙を経て16年間市長を務めたが、「手に対する支配」の教訓を厳しく守って何の問題も起すことなく、市政上の諸課題に精一杯に取り組むことができたのは、ひとえにプルータルコスのお蔭であったと感謝している。
佐藤孝志