古典学エッセイ
渡邉雅弘:『日本西洋古典學文獻史』のことあれこれ
東大駒場キャンパスでの學會で用意した『日本西洋古典學文獻史』(全4巻、以下『文獻史』と略稱)150揃へは會員の皆様にすべてお持ち歸り戴き、豫めの不安拂拭で安堵の「完賣」となりました。配布の作業を擔はれた關係者と會員の皆様に感謝してゐます。
中務先生のお勸めがありましたので、『文獻史』の直接間接の顚末を記します。
『文獻史』は「古典學の再構築」プロジェクトの關係者等、一部にしか知られてをらず、洋學史中、ギリシア學・ローマ學の受容史研究が殆ど處女地の現狀では、會員の多くには降つて涌いたやうな刊本の印象を與へたと思ひます。ただ數年前、突如あるアメリカの大學圖書舘から代行業者を介した購入の打診があつて、3巻分を寄贈したことがありました。
『文獻史』の發案者は山川偉也先生で、それを全4巻の刊本(④巻はCD化)にして下さつたのが、プロジェクトのリーダーのお一人中務哲郎先生です。私は編輯の作業をしました。
十數年前、山川先生は在外研究でアテネに御滞在で、私も當時在アテネ・アメリカ考古學研究所にをり、偶然サモス島で開催の希哲學會でお目に掛り、以來先生に親炙してゐます。エピクロスについて御敎示を仰ぐやうになつた戸塚七郎先生も學會にお出になりました。ある時、山川先生が日本西洋古典學の展開を跡附ける資料や仕事を見ないと呟かれた事があり、もともと切支丹時代から現在までのエピクロス・ルクレティウス受容史に限つた文獻表を作る心算があつたので、その網羅的に調べるアイデアを私が戴きました。そこで、まづ曾て院生として指導を受けたケムブリヂのD.Sedley先生の許に移り、エピクロスのテキスト讀解の一方、二足の草鞋で大學中央圖書舘のジャパン・セクションで細々と作業を始めました。政府補助金の激減で、眞冬に殆ど暖房の入らないやうな圖書舘でした。
中務先生には、法學部の院生の時、モグリでギリシア語文法を敎はりました。その後、先生は私が勤務校の小雜誌に粗描程度で聯載してゐた原「文獻史」に目を留めて下さいました。それが刊本化の發端です。學生の時、友人が知性派と肉體派の二分を申しましたが、さしずめ私は後者で、以來余儀ない聊かの中斷を挾みながら一人で編輯作業を續けました。驚いた事の一つは、昭和19年、20年の敗戰の最中でも、リベラル・アーツの中心にある西洋古典學關係の著書や飜譯、論文が僅かでも發表され續けてゐた事實です。
當初、先生にも私にも1册で終了の想定があつたと思ひますが、先生が豫算措置を講じて下さつた10年餘の間に、『文獻史』は現4巻にまで膨れ上がりました。昔、偶々讀んだ『うひ山ふみ・鈴屋答問錄』(岩波文庫★一つの古本)にあつた、自分のやうな淺學菲才の者でも孜々として掛けた時間に見合ふぐらいの仕事はできるものだといふ趣旨の宣長の敎へを、まさかの卑下慢と思つた憶へがありますが、本心だつたのでせうか。格別に優遇戴いた東洋大學圖書舘、早稻田大學中央圖書舘を始めとして、書庫に入る目的で一時期いくつも引き受けた非常勤先の大學圖書舘、公設圖書舘等、どの圖書舘の書庫でも指を埃で黑く染めながら資料を繰り、單行本や古雜誌、新聞、マイクロフィルムから抜き書きした相當量のメモを捨てるに忍びず、ずるずると私が續けた編輯に、人名索引まではと、中務先生が附き合つて下さいました。しかし、御提案のあつた事項索引と自分で發案の地名索引の作成は斷念しました。戰後分の文獻に就いても資料が膨大で個人の力では及びません。
切支丹時代からの戰前分の文獻表を作るに當つて、私は限られた資料を繰つただけで、見逃しもあります。明治期以降全國には無數とも言ふべき新聞や雜誌が發刊されてゐます。現存する資料を、戰後分も含めて學會が總力を擧げて調査することはできないでせうか。
『文獻史』はほぼ一人の仕事で、誤記、缺落、重複等の缺陷が多々あり、巨細に御指摘下さつた向きもあります。細部に神は宿り給ふとすれば、慚愧に堪へません。「ほぼ」とは、④巻の人名索引追加の際、本文688頁分をプリントアウトして、人名をエクセルに落とす作業を家内に手傳つて貰つたことに據ります。吉見孝夫先生は資料を御提供下さいました。西村賀子先生の「長澤正毅」の讀みの御問ひ合はせには虛を衝かれる思ひがしましたが、柳田泉の著書で換へてお答へし、記事の訂正ができました。その昔、東大史料編纂所の林茂先生に、明治期ならば柳田泉の仕事を追へと敎へられてゐました。なほ、言ひ譯めきますが、各巻いづれも締切日の時間との競走で、①②③巻は原稿のプリントアウトがそのまま印刷に附されて刊本となり、④巻はリムーバブルディスクの原稿がそのままCD化されたので、校正の暇がありませんでした。校正は一層難物だつたでせうが、本來手堅く正確であるべき書誌ですし、網羅的とは程遠いこの無様には御寛恕を乞ふしかありません。
私は日本でも歐米でも、學校で西洋古典文獻學を仕込まれたことはありません。木村三四吾氏の曲亭馬琴を扱つた書誌『近世物之本作者部類』(八木書店)を讀んだ時、わくわくしたやうに、法學部の院生の時、書誌學や文獻學への關心を引き出して下さつたのは、分野は違ひますが、一代の碩學と呼ばれた上代日本文學の小島憲之先生です。思ひがけない出會ひでした。當時70歳の小島先生が鷗外の漢文日記「北游日乘」を讀み解かれた『ことばの重み』(新潮選書。講談社学術文庫)の資料集めのお手傳ひをしながら、御自宅での贅澤な個人敎授で小島文獻學の方法と樂屋裏を具さに知りました。後に國語學の友人に、小島先生の懷に入るなんて望み得ないことだと、妬まれ叱られました。事の重大さに當時の私が氣附いてゐなかつたからだと言ひます。眼光紙背に徹せられた遙か高峰の先生に及ぶべくもありませんが、肉體派の私は小島先生の最後の弟子です。84歳で亡くなられた先生の思ひ出は多々あつて、「現在に徹せよ」或いは「註釋こそ最高の學問」といふ敎へには、異論はあるでせうが、私は忠實でありたいと思つて來ました。アテネに御旅行でお出でになつた鈴木照雄先生にお目に掛つた折り、私が小島先生から御恵贈の御著書を戴いた旨をおづおづ申し上げると、先生は溫顔で「小島先生に褒められれば百人力、いや千人力」と仰いました。何より小島先生に褒められたいといふのが、自分の仕事の慾でもありました。
をはりに、小島文獻學とは少し違ひますが、林達夫氏から戴いた手紙の一節を引きます。病床の氏が平凡社の航空便用箋4枚にびっしり認められたそれを、私は40年大切にして來ました。古典の考證學を超へよとの示唆の下、かうあります。「學問の話は多少の學問歴の敎示があつても、結局一方交通に終り、相手のツボに合つたことは---永い經驗で申して---ほとんどありません。ご自分で、ドンランに、ガムシヤラに勉強し、多くの試行錯誤をいとわず、どんなにえらいといわれる學者だろうが、イカれない、究學心の貫徹を心がけることがだいいちです。」仕事をしたらもう一度手紙をくれ、とありました。何年か後に最初の論文の抜刷をお送りしましたが、氏は旣に亡くなつてゐて間に合ひませんでした。
渡邉雅弘(愛知教育大学)
(付記 6月1日・2日、東大駒場大会の受付で『日本西洋古典學文獻史』を150セット用意して、すべて希望者にお持ち帰り頂いた。配布に当りお世話頂いた東京大学の日向太郎氏、筒井賢治氏、学生諸氏にお礼を申し述べたい。『文獻史』を作ろうというきっかけは何であったのか、これほどの大事業がいかにして成し遂げられたのか、と問い合わせる声が二、三に留まらず、編者の渡邉雅弘氏にお願いしたところ、このような一文をお寄せ下さった。文面は淡々として控えめであるが、『文獻史』を手にした人は、これが古典学にとっても文化史にとっても計り知れぬ価値を有することを知るであろう。中務は当時たまたま科学研究費「古典学の再構築」の分野リーダーをしており、代表の中谷英明氏に頼んで『文獻史』を「古典学の再構築」の刊行物としてもらったに過ぎない。『文獻史』④巻のCD化は学会事務局のマルティン・チエシュコ氏のご尽力による。
なお、『文獻史』は7月以後に、京都大学学術出版会が100セット限定で希望者に配布することになっている。 中務哲郎記)