古典学エッセイ
中務哲郎:アリストパネス『蛙』の驢馬について
エクセター大学のダニエル・オグデン氏より新著『ドラコーン』をお贈り頂いたが (D.Ogden, Drakōn. Dragon Myth & Serpent Cult in the Greek & Roman Worlds. Oxford 2013)、これはギリシア・ローマ神話に現れる竜と蛇、竜殺しの神話と蛇形の神格を網羅的に扱い、精細極まりない文献的裏付けを示した興趣尽きぬ本である。著者は英国人なれば当然のことであろうが、その最終章は聖ジョージと聖パトリックにあてられている。聖ジョージの日のパレードにはan elaborate hobby-horseのドラゴンが登場する、とのことゆえ、そのhobby-horseの絵を見せていただけないかとお願いしたところ、オグデン氏は折り返し、二種類のhobby-horseをお教えくださった。一つは竜のそれ(図1)、もう一つは竜を退治する騎士のそれ(図2)であった。
図2の右側、三人の騎士の絵から思い出したのは、1997年8月、セント・アンドルーズにおけるケネス・ドーヴァー先生との対話である。セント・アンドルーズはこぢんまりした大学町で、図書館前でコスター編『アリストパネス古注』など読みながら歩く先生の姿をお見かけしたし、スーパーマーケットでお会いした時には、私が履く下駄をまじまじとご覧になるので、中国の詩人謝霊運はこれを履いて、山道を登る時には前歯を外し、下りる時には後ろの歯を外しました、などとご説明した。
一日、エリザベス・クレイク先生が自邸で園遊会を開いて下さり、そこでドーヴァー先生とアリストパネス『蛙』について話し合うことができた。先生は「ギリシアの蛙はこんな風に鳴くのだよ」と口に掌を当てて何種類かの鳴き声を真似して下さった。それに対して私は、『蛙』上演のための思いつきを申し上げた。『蛙』のプロロゴスでクサンティアスは驢馬に乗って登場するが、驢馬を張子細工にしてクサンティアスが自分の足で歩くようにすれば、この辺りのやり取りは一層面白くなるのではないか、と。先生のお答えは、「それも一つの舞台上の演出だ」というに留まった。この時私はhobby-horseという言葉が思いつかず、artificial donkeyという造語で間に合わせたのだが、図2のhobby-horseなどをご覧戴きながら説明したら、もっと積極的な賛同を得られたのではないかと口惜しく思い出している。
問題のシーンは内田次信さんの訳ではこのように進む(岩波書店「ギリシア喜劇全集 3」)。
ディオニューソス スタムニアースの子ディオニューソスたるこの俺さまは自分で歩いて苦労している一方、
こいつには乗り物を使わせ、難儀をせぬよう、
荷物も担がずに済むようにしてやってるというのに。
クサンティアース わたしは担いでるじゃないですか!
ディオニューソス 担いでいるだと、それに跨がっているのに! (25)
クサンティアース でもこれは担いでますよ。
ディオニューソス どんな風に?
クサンティアース ずっしりときてますよ。
ディオニューソス お前の担ぐその重荷は、ロバが担いでいるのだろう。
クサンティアース わたしが運んで担いでいるんだから、断じてそうではないです。
ディオニューソス 自分が他のものに担がれているのに、どうしてお前が担いでることになるのだ?
クサンティアース 知りませんよ。でもこの肩は潰れそうなんだから。 (30)
ディオニューソス じゃあ、そのロバは役に立たないと言うなら、
今度はお前がロバを持ち上げて担げ。
これについて注釈書の幾つかを見てみよう。ロジャーズ(1902)は、35行のディオニュソスの台詞「降りろ、ごろつきめ」でクサンティアスが驢馬から下り、驢馬はこの劇から姿を消す、と記すから、本物の驢馬と考えている如くである。ラーダーマッヘル(1967)も、ここでヘーベル「奇妙なろばの旅」(木下康光編訳『ドイツ炉辺ばなし集』岩波文庫、所収。息子を歩かせ自分は驢馬に乗る親子。次には息子を乗せて自分が歩く。次には二人とも乗り、二人とも歩き、最後には二人で驢馬を担ぐ話)を引き合いに出すから、本物の驢馬が舞台にあると考えるのであろう。ドーヴァー先生の『蛙』注釈(1993)は、舞台上の動物は用無しになっても自分で退場してくれるとは限らないので、恐らく45から47行の辺りで、ヘラクレス家の召使がそっと曳いて退場させたのではないか、とする。
この点、ソマースタイン(1996. Rep.1999)が最もよく考えており、一人ないし二人で驢馬を演じることも可能で、その場合には適当なタイミングで退場できるが、本物の動物を用いた場合には黒子のような人が連れ出さなければならない、と記す。私が「張子の驢馬」のアイディアをお伝えした内田次信さんは、「演出上このロバは実物とも、役者の身につけた張りぼてとも、それに扮した人間とも解しうる」と訳注を施して下さっている。
荷物を担いだクサンティアスが驢馬に乗ると、驢馬はクサンティアスと共に荷物をも運ぶわけだから、驢馬が本物であろうが作り物であろうがこの場面は充分に面白い。しかし、張子の驢馬を身に着けたクサンティアスが自分の足で歩いていることにすると、ここのやり取りは一層アイロニーを増すと思うのだが、どうだろうか。
因に、ソマースタインはこの注のところで、一人が馬となり、それにコロスの一員が跨がる壼絵(図3)を参考に挙げている。歌舞伎の馬は二人の役者が縫いぐるみに入って勤めるが、人を乗せるとかなりの重労働になるというから、一人の馬ではさぞ苦しかったであろう。いや、長時間そんな姿勢をとるのは不可能に思えるが、張子の馬ならばその問題は起こらない。壼絵にはさらに海豚や駝鳥に乗った戦士の絵もあるが (M. Bieber, The History of the Greek and Roman Theater. p.37)、これも張子ならば容易に実現できることである。
図1 「聖ジョージの日のスナップ・ドラゴン(ノーフォーク州ノリッジ)」
http://www.dragonglow.co.uk/snap.htm
図2 「聖ジョージのドラゴン退治(ベルギー、モンス)」
http://en.wikipedia.org/wiki/Ducasse_de_Mons
図3「騎士のコロス(前550頃、黒像式アンフォラ、ベルリン)」
(G.M.Sifakis,Parabasis and Animal Choruses,1971より)
中務哲郎