古典学エッセイ
橋場 弦:『ブリル新ヤコービ』のこと
長らく自分のことを歴史学者と思い込んできたが、最近になって、さるきっかけから古典学者の仕事を見習うようになり、以来古典文献学の尊さのようなものに開眼させられた思いでいる。
『ブリル新ヤコービ』(Brill’s New Jacoby)のプロジェクトに参加させてもらったのが、そのきっかけである。ヤコービFelix Jacoby (1876-1959)とは、『古代ギリシア歴史家断片集』(Die Fragmente der griechischen Historiker, 略号FGrH)全15巻の編者で、古代ギリシア史研究に金字塔をうちたてた、知る人ぞ知る偉大なドイツの古典学者である。
古代ギリシアの歴史家といえば、ヘロドトス、トゥキュディデス、クセノポン、ポリュビオス・・・という一連の著述家が想起されるが、実は著作がまとまった形で残されているこれらひとにぎりの歴史家の背後に、作品が散逸して断片しか伝わらない、おびただしい数の歴史家たちが埋もれているのである。エポロス、テオポンポス、ピロコロスなど著名な歴史家から、ごくわずかの断片しか伝わらず、人物についてもほとんど不詳の著作家にいたるまで、約850人にのぼる歴史家の膨大な断片をことごとく集成し、綿密な考証と註釈をつけたものが、ヤコービの『古代ギリシア歴史家断片集』である。公刊には1923年から彼が死ぬ1959年までかかり、一部は未完のまま残された。古代ギリシア史研究がこの業績から得た利益は計り知れない。
この『古代ギリシア歴史家断片集』を、国際的な規模の研究者たちによって大改訂し、英訳と註釈を付してあらたな形で作り直そうという企画が、『ブリル新ヤコービ』(以下BNJと略)のプロジェクトである。世界16カ国161人の古典学者・歴史学者が執筆に参加する壮大な企画であり、手がけるのはオランダ学術出版の老舗ブリル。編集の総責任者はミズーリ大学教授I. Worthingtonで、日本にも参加の誘いが来た。日本からは私や現神戸大学准教授の佐藤昇さん、ほか数名が名乗りを上げた。2004年にはブリル社と契約を結び、めいめいが数名の断片作家を担当することになった。
契約にあたって、ブリル社からは締め切りをみずから決めるようにとの申し入れがあり(こういうシステムは日本の出版社にもぜひ見倣ってもらいたいものである)、われわれは相談の上、十分な時間を取って原稿を仕上げられるようにと、思い切って2010年8月と申し出ることになった。今となっては賢明な判断だったと思う。
プロジェクトは、各執筆者が担当する歴史家の割り当てから始まった。エポロスのような有名どころは、すでに欧米の研究者たちに取られてしまっており、残った候補はほとんどはじめて名前を聞くようなマイナーな歴史家たちばかりで、その中からわれわれはいくつかを自分の割り当てとして選ばねばならなかった。少しでも自分の専門領域に近い歴史家を選びたかったが、かならずしも自分の希望通りには行かず、結局私はStesikleides (FGrH 245)、Andron (246)、Theodoros (346)という、正直に告白してしまえばそれまで聞いたこともなかった3人の歴史家を引き受けることにした。
2009年と2010年の二度にわたって、この仕事の資料収集のために、ロンドン大学古典学研究所とケンブリッジ大学図書館を訪れ、本格的にテクストの校訂と註釈の仕事に取り組んだ。古典文献学の重みに触れたのは、ルネサンス以降これまで積み重ねられてきたそれら歴史家断片のテクスト校訂を、当時の刊本にさかのぼって確かめて行く作業の中であった。とくにケンブリッジ大学図書館の貴重図書室で、Frobenius、Stephanus、Casaubonus、Schweighäuserなど、16世紀以来の刊本テクストとそれらの校訂註(apparatus criticus)を、一つ一つ丹念に調べて行くとき、自分は人に知られずひっそりと異国の図書館でこのような仕事をしているのだ、という静かな感慨に打たれるのであった。
私が調べたテクストは、主としてアテナイオスやクセノポンに引用されたものであった。朽ちかけた刊本を、貴重図書室備え付けのクッションにていねいに乗せ、しわぶき一つするのもはばかられるしんとした部屋の中で、鉛筆を使ってギリシア語のテクストやラテン語の校訂註を書き写していると(貴重図書室では鉛筆以外の筆記具の使用は認められない)、司書の女性がにこやかに近づいてきて、なにやら金属でできた細い数珠のようなものを渡してくれた。開いた頁を左手で押さえながら右手で仕事をすると、本が傷むので、左右の頁の上にその数珠を広げて置き、重しにするのである。そうすれば両手も自由に使える。所変われば品変わるで、こんな道具もあるのかと、東洋から来た何も知らない研究者は、素直にびっくりするのであった。同時に古典テクストを大事にする彼の地の伝統に、これまた素直に感心したのである。
ある日宿所に戻ってきて、それまで筆写したテクストを整理しようとノートをさがすと、どこにも見あたらない。大学図書館のどこかに置き忘れたらしい。あれを紛失したら何のため苦労したのかわからなくなる。もう図書館は閉まっている。一晩悶々として眠れなかった。
翌朝青くなって大学図書館にすっ飛んでいった。玄関の担当者に教えられて、2階の閲覧室の司書に尋ねると、「ああこれのことか」と言って渡してくれたのは、紛れもなく私のファイルノートである。昨日検索室(大学図書館2階中央の廊下にはずらりとコンピュータが並んでいて、Newtonなる検索エンジンを使って本を探すのである)で本を探した後、うかつにもそこに置き忘れたのだ。おもわずノートを抱きしめた。日本では見ることのできない、16世紀以来の古典学の成果の一部が、そのノートに記されているのだ、というと大げさに聞こえるだろうが、その時の自分の気持ちを正直に表すとそうなる。ケンブリッジは以前一年間家族と過ごした町でもあり、何かと人の好意が身にしみるのである。
BNJの原稿はおかげで無事締め切りに間に合い、ギリシア語テクストとその英訳、校訂註(臆面もなく自分でラテン語でつけた)および英文註釈をそろえて提出し、これは昨年からブリル社の有料オンラインで公開されている(http://www.brillonline.com/)。完成原稿が提出されれば順次オンラインで公開して行くしくみである。
この仕事をして、いくつか嬉しかったことがある。Stesikleides断片1番のヤコービのギリシア語テクストをよく見ると、アテナイオスを引用している本文から、「アテナイにおいて(Ἀθήνησιν)」という単語がすっぽり脱落しているのを発見したのである。碩学ヤコービもまたこうしたミスをするのか、と思うと何だか嬉しかった。もちろんこれは校訂註をつけて訂正した。
もう一つ、非常に些細なことにもかかわらず、とても嬉しかったこと。おなじくStesikleides断片3番のテクスト校訂において、前360/59年のアテナイのアルコン名、カリメデス(Kallimedes)の属格語尾は、校訂者によって-ουςだったり-ουだったりと、これまで意見がまちまちであった。そこで試みに、このアルコンが登場する碑文を複数さがしてみたところ、どれも例外なく-ουςで終わっているのを発見した(IG II2 1436.27など)。これまでの校訂者は、同時代史料である碑文にあたって確かめるということをしてこなかったのである。
だがこれを私の判断で訂正してよいのか、実は迷うところだった。私の原稿を担当してくれた編集委員はミズーリ州立大学教授E. Carawanで、専門分野が近いこともあり、ずいぶんと懇切にアドバイスをくれたのだが、彼に相談すると「その発見は君の手柄だ」と言ってくれたので、これも校訂註をつけて本文を修正した。属格語尾の形がどうだろうと本文の意味にかわりはないし、何に役立つものでもないと言われればそれまでだが、一字一句のテクスト復元に命を燃やすのが古典文献学の本分なのだから、きわめてささやかながらそれに私も貢献できたと思うと嬉しいのである。
ついでに嬉しかったことの最後は、些少ながらブリル社から原稿料をもらえたこと。当初の契約額をなぜか大幅に下回った上(そのかわり締め切り日は一日もまけてもらえなかった)、昨今のユーロ安で手取りが本当に些少になったけれども、海外の出版社から原稿料をもらうなど経験したことのなかった私にとっては、額の多少にかかわらず素直に嬉しいことなのであった。
そのかわり、この仕事をして老眼が一気に進んだ。にもかかわらず、きわめて僭越ながら、こうした仕事こそ、「今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られ」(トゥキュディデス『戦史』1巻22章4節、久保訳)てゆく営みなのであろうと思うのである。
橋場 弦(東京大学)