古典学エッセイ
篠塚千惠子:アフロディテの指先
大英博物館のいわゆるエルギン・マーブル室に展示されているパルテノンフリーズの一枚の石板に、アフロディテの人差指の先端部分が残っているのをご存知だろうか?よほど眼を凝らさないと見落としてしまうような微かな痕跡。たとい眼に留めたとしても、パルテノン彫刻の研究者でなければ、それがあのアフロディテの指先だとはすぐには思い当たらないにちがいない(図1、2)。東フリーズ中央のいわゆる「ペプロス奉納儀式」にあたかも列席しているかのようにして表されたあのアフロディテの指なのである。パンアテナイア祭の主要儀式が展開している中央場面の左右両側に6柱ずつ分かれて並んだオリュンポス12神(図3、4)、そのうち彼女は向かって右側、つまり北寄りの、祭神アテナを筆頭とする神々のグループの最後尾に坐している(図5)。肩から腕に袖のように垂れるたっぷりとしたキトンをまとい、腰から下は豊かな襞を形づくるヒマティオンでおおい、頭髪を頭巾で包み,さらにその上にヴェールをかけている。彼女の左脇には、いかにも子供らしく母の膝に手をおいたエロスがもたれるようにして立っている。彼女は息子の小さな左肩に左腕を載せて、向こうからやって来る死すべき人間たる乙女たちの行列を指差している。まさしくその彼女の左人差指の先端が、その先端だけが、奇しくも大英博物館の石板に残っているのだ。なぜ,指先だけなのか?
アフロディテの刻まれた石板は東フリーズの左から数えて6番目の石板VI(パルテノン研究では石板番号をローマ数字,人物番号をアラビア数字で示すのが慣例となっている)である。その幅はもともと420cmもあり、ポセイドン、アポロン、アルテミス、アフロディテ、エロス、アッティカ10部族の名祖英雄とみなされる4人の男性人物、行列の指揮官とされる2人の男性人物、計11人の人物がそこに刻まれていた(図6)。1674年にフランスの駐トルコ大使ノワンテルの指示によって描いた画家カレーの素描を見れば、その当時これらの人物がすべて保存良好の状態だったことが分かる(図7)。だが、その状態は長くは続かなかった。いつと確とは分からないが、アフロディテと右隣のアルテミスとの間で石板が縦に割れ、ポセイドンからアルテミスまでの部分が落下した。割れた原因は1687年にトルコとヴェネツィアが戦った時ヴェネツィア軍が放った大砲の衝撃によるものと推測され、落下はその時か、あるいはその後—遅くとも18世紀後半になる前—のことだった。落下した石板VIの断片は幸運にも1836年に再発見され、やがてアクロポリス美術館に入ることになった。一方、現場に残った石板VIの部分は、1787年に画家フォヴェルがフランスのシォワズール・グフィエ伯爵のために石膏の型取りを行った。しかし、1800年エルギン卿がアテネに調査隊を派遣した時にはすでにアフロディテとエロスの部分は失われ、4人の名祖英雄たちも甚だしく損壊し、2人の行列指揮官は頭部などが欠けていた。エルギン卿によってイギリスに運び去られた石板VIの残欠とは、そうした見る影もない状態のものであった(図8)。果たしてその時エルギン卿はその残欠の左端近くに件のアフロディテの指先が残っているのに気づいていただろうか?いや、指先だけではない、少年エロスが左手に持っていた日傘の長い柄の僅かな一部と、上方に丸い天蓋のように広がった傘の一部までがそこには残っていたのである。カレーの素描にはこの日傘も、エロスの背にちょこんとついている二つの小さな翼も描かれていない。画家が描いた地点からは見分け難く、それらの存在に気づかなかったのだろう―おそらく彼はその少年がエロス、脇の女性がアフロディテとは知らずして模写していたのだ。フォヴェルが石膏型をとった時、エロスの部分が翼と日傘を含めてまだ保存良く残っていたのは僥倖としか言いようがない。
何故アフロディテとエロスの部分が失われたのか、その原因は詳らかではないが、フォヴェルが石膏型をとった時点でさえ、アフロディテの上半身はほとんど残っていなかった。ヴェネツィア軍の爆撃によってひびが入り、少しずつ断片となって落下していっていたのだろうか。19世紀以降、アフロディテの後頭部の一部や彼女の坐るスツールの脚に垂れるヒマティオンの一部など、僅かの断片が出土している。特記すべきは、1972年にギリシアの学者デスピニス(G.Despinis)がそれまで墓碑浮彫の一部とみなされてアテネ考古博物館の倉庫に眠っていた小断片を、アフロディテの右下腕とその上に載せたアルテミスの左手の一部を示すものだと同定し、発表したことだった(図9)。一体に、愛の女神アフロディテと処女女神アルテミスが親密に表されることはギリシア美術では珍しい。それなのに、ここではアルテミスは右隣の兄弟アポロンに背を向け、アフロディテと真の姉妹のように仲良く腕を組んで、アフロディテの指差す方向を一緒に見ているのだ(図10)!両女神、そしてエロスはその視線と身振りを通して互いに結ばれ、親密な三幅対を成すことになった。2009年に開館した新しいアクロポリス美術館のパルテノンギャラリーに展示されたアフロディテは、こうした少数のオリジナルの断片とカレーの素描、フォヴェルの石膏型に基づいてかろうじて再構成されたものである(図5-6、9-10)。東フリーズの他の神々が奇妙にも、祭の行列や中央の儀式に直接結びつくような視線も身振りも示さず、自分たちの世界に沈潜しているように見えるのに対し、このアフロディテとエロス、アルテミスの三幅対の神だけがいかにも興味津々として行列の方へ視線を注いでいる。「ほら、あそこをご覧なさいよ」と雄弁に語る左人差指に誘導されて。
大英博物館でこの指先の残欠を初めてそれと知ったのは、平成6~8年度科学研究費補助金による第一次パルテノン調査(「パルテノン神殿の造営目的に関する美術史的実地調査」Parthenon Project Japan 1994~1996)に参加してフリーズの目視調査を行っている時だった。研究代表者は水田徹氏で、調査隊には東京学芸大学で教鞭をとる画家の金子亨氏と彫刻家の宮里明人氏、美術史の分野から故福部信敏氏、現在続行中の第三次パルテノン調査の代表者である長田年弘氏も加わっていた。大英博物館キュレータのイアン・ジェンキンズ氏の特別の計らいによる開館前の2時間の調査中、一人一人石板に張り付くようにしてひたすら視る、メモをとる、写真を撮る。合間に目視結果—着目点など―を互いに報告しあい、視ているようで視ていないことに互いに愕然としあう。そんな合間のひとときだったろうか、水田氏が石板に残る指を指し示してくれたのは。以来、隊員たちの「とっておきの話」になった。
図1:東フリーズ石板VIの残欠:左端にアフロディテの左人差指の指先、エロスの持つ日傘の柄と傘の一部、4人の名祖英雄(人物番号43~46[46番の人物は輪郭が残るのみ])、ペンテリコン産大理石 大英博物館(2008年8月16日筆者撮影)
図2: 東フリーズ石板VIの残欠:アフロディテの左人差指の指先、エロスの持つ日傘の柄の一部、大英博物館(2008年8月16日筆者撮影)
図3:大英博物館所蔵の東フリーズ中央場面:ペプロス奉納場面の向かって左側にゼウス、ヘラ(有翼の女神を伴う)、アレス、デメテル、ディオニュソス、ヘルメスが並び、向かって右側にアテナ、ヘファイストスが見える。ポセイドン、アポロン、アルテミス、アフロディテの部分はアクロポリス美術館所蔵。(2009年9月24日筆者撮影)
図4:大英博物館に展示されたオリュンポス12神の立体復元模型。(2012年11月2日に展示準備がほぼ終了したところを筆者撮影) 中村るい氏の指導の下に東京芸術大学美術解剖学研究室にて制作。詳しくは本学会ホームページのお知らせ欄に紹介記事が掲載(2012年12月24 日付け)されているので、参照されたい。
図5:左からアテナ、ヘファイストス、ポセイドン、アポロン、アルテミス、エロスを伴うアフロディテ。アテナとへファイストスは石板Vに属す。(2012年11月5日筆者がアクロポリス美術館にて撮影。ここでの展示はフリーズ全体の復元のためにアクロポリス美術館が所蔵していない浮彫部分を石膏コピーで補っているため、石膏の白い色でオリジナルの大理石浮彫から区別できる。)
図6:アクロポリス美術館に復元されている石板VIの部分。往時はno.38のポセイドンからno.48の行列指揮官までが同じ石板に刻まれていた。(2012年11月5日に筆者が撮影した写真をトリミングしたもの)
図7:カレーの素描[この図7ではno.44~48の人物は省略](The Carrey Drawings of the Parthenon Sculpture,
T.Bowie and D.Thimme, edd., Bloomington, 1971, pl.27)
図8:大英博物館所蔵の東フリーズ石板VIの残欠:左端にアフロディテの左人差指の指先、エロスの持つ日傘の柄と傘の一部、4人の名祖英雄(no.43~46)と二人の行列指揮官(no.47~48)(2007年11月20日大英博物館にて筆者撮影)
図9:アフロディテのオリジナルの断片。後頭部の一部、右肩から垂れるキトンの一部が19世紀以降に出土し、アフロディテの右下腕とその上に載せたアルテミスの左手の一部がG.デスピニスによって同定されたもの。(アクロポリス美術館にて2012年11月5日に筆者撮影)
図10:左からポセイドン、アポロン、アルテミス、アフロディテ、エロス。(アクロポリス美術館にて2012年11月5日に筆者撮影)
パルテノン東フリーズ石板VIについての関連参考文献
1.A.Michaelis, Der Parthenon, Leipzig, 1871,pp.258-259
2. M.S.Brouskari, The Acropolis Museum A Descriptive Catalogue, Athens,
1974, p.149
3. E.G.Pemberton, “The Gods of the East Frieze of the Parthenon”,American
Journal of Archaeology,1976, p.116 n.25
4. F.Brommer, Der Parthenonfries, Mainz am Rhein, 1977, pp.117-121
5. I.S.Mark, The Gods on the East Frieze of the Parthenon, “Hesperia”,
1984, pp.295-296
6. 澤柳大五郎『パルテノン彫刻の流轉』グラフ社 昭和59年
7. I.Jenkins, The Parthenon Frieze, London, 1994
8. E.Berger und M.Gisler-Huwiler, Der Parthenon in Basel Dokumentation
zum Fries, Mainz, 1996, pp.161-166
9. 水田徹(研究代表者)『パルテノン・フリーズ図像・様式一覧』(平成6~8年度科学 研究費補助金・国際学術研究 パルテノン神殿の造営目的に関する美術史的実地調
査研究成果報告書) 東京学芸大学 平成11年 105-110頁
10. 篠塚千惠子「パルテノン彫刻とアクロポリス美術館の変遷」(『美史研ジャーナル』 第7号 武蔵野美術大学造形文化・美学美術史研究室 2009年 24-43頁)
11. 水田徹『パルテノン・フリーズ 観察と考察』中央公論美術出版 平成23年 34-39頁
篠塚千惠子(武蔵野美術大学)