古典学エッセイ
南川高志:ランスの古代
このほど機会を得て、フランスのランス市を訪れた。ランス(Reims)は、パリから東北の方角へ、142km離れたところにある都市で、シャンパーニュ・アルデンヌ地方マルヌ県の中心都市である。TGVを使えば、パリ東駅から45分ほどで着くことができる。現在の人口は20万人ほど。19世紀前半のシャルル10世まで、25名もの歴代フランス国王が聖別戴冠式を執り行った大聖堂(ノートルダム大聖堂)があることで、フランス国内では非常に有名な町である。わが国では、画家藤田嗣治が建て、フレスコ画を描いた礼拝堂がある町として、いやむしろシャンパンの本場として知られているかもしれない。
ローマによる征服以前にこの地に居住した人々は、レーミー(Remi)族である。Reimsの名もこれに因む。彼らはローマ人と交易をおこない、カエサルの征服戦争にあたってはローマに友好的な行動をとった。ローマ帝国領になってからも順調に都市を発展させ、属州ガリア・ベルギカの中心市となる。この町は、ストラスブールからパリへ向かう街道と、ディジョンからカレーに向かう街道との交差点にあったから、戦略的にもすこぶる重要であった。最盛期の人口は5万人ほどと推定されている。
ローマ人の都市としてのランスは、ドゥロコルトルム(Durocortorum)と呼ばれた。町には、ローマ都市の常として二本の大路が直角に交差し、全体に格子状の街路が走っていた。大路の交差点付近にフォルムが作られており、現在の町にもそれが地名(Place du Forum)として残っている。このフォルムには、200年頃に造られたCrytoportico(地下歩廊)が残っている。3本の歩廊が文字Uの形を成していたようだが、現在そのうちの1本のみが完全に発掘されている。長さ60メートル、幅9.50メートル、高さ5.65メートルあって、どっしりとしたアーチ構造が天井を支えている、立派な作りの歩廊である。倉庫としても用いられていたらしい。この他、ローマ時代のランスには、このフォルムの近くに公共浴場や劇場が、市壁の外には剣闘士競技場があった。
この地下歩廊と並んで印象的なローマ遺跡がある。フランス鉄道ランス駅のほど近く、駅前の整然と木が植えられたプロムナードの端に、マルス門(Porte Mars)と呼ばれるローマ時代の市門が残っている(写真A)。ローマ都市ランスの4つの門の一つ、北門で、長さが33mある大きな門である。その形は明らかに凱旋門の形式を真似ている。200年頃の建造と思われ、円柱はコリント様式で、浮彫は神話を描いたものであっただろうが、1面を別にして、現在はほとんど判別できない状態である。
写真A
後期ローマ帝国時代に、ランスは再編されたローマ帝国属州の1つ、属州ベルギカの中心地とされ、行政区ガリアの北部の拠点となった。355年晩秋、副帝に任命されたユリアヌスは、皇帝の代理としてガリアを統治するため北イタリアのミラノを発ち、ヴィエンヌで冬営、翌年のおそらく6月頃にこのランスに到達した。皇帝コンスタンティウス2世からわずかな手勢しか与えられなかったユリアヌスは、このランスの地で、ガリア軍を指揮するマルケルスとその前任者ウルシキヌスが率いる軍団と合流した(Ammianus Marcellinus, XVI,2,8)。このウルシキヌスは、歴史家アンミアヌス・マルケリヌスの軍隊勤務時の上官である。ユリアヌスは、このランスの地から、副帝として政治・軍事の行動を本格的に始める。そして、それまで、哲学・文学青年であった彼が激変し、3年後には皇帝コンスタンティウス2世に反旗を翻して、「背教者」ユリアヌス帝となっていった。
ところで、このようなユリアヌスの足跡を今のランスで見ることはできない。ランスには、先に述べたノートルダム大聖堂以外に、もう一つ重要な聖堂がある。11世紀創建のサン・レミ大聖堂で、フランク王国の国王クローヴィスに洗礼を施した聖レミが葬られている。聖堂の外には、聖人がクローヴィスに洗礼を施す様子を描いた像がある(写真B)。この教会に付属する元ベネディクト派の修道院が現在博物館(サン・レミ博物館)になっており、その1階に「ガロ・ロマン」時代の考古遺物が数多く展示されていて、たいへん見応えがある。とくに、3世紀ないし4世紀の将軍フラウィウス・ヨウィウスの石棺は、その大きさと見事な浮彫に驚かされる。しかし、この博物館もクローヴィスの聖地である。博物館の2階には、聖レミの生涯を描いた実に見事なタピスリが掛けられているが、博物館が宣伝し実際でも人々の注目を集めているのは、洗礼を受けるクローヴィスを描いた1枚である。クローヴィスはこのランスで正統派のキリスト教徒となり、「フランク王国」の勢力を拡大していった。また、ランスのキリスト教会は「フランス王国」全体に対して、宗教上の大きな影響力を持つに至る。
写真B
ランスには、クローヴィスと並んで、もう一人中世の英雄的存在がいる。ジャンヌ・ダルクである。彼女は、シャルル7世を支援してこのランスで戴冠させた。後に彼女はルーアンで処刑されてしまうが、ランスは彼女を讃えてきた。大聖堂の内と外に、比較的新しい時期に建てられたものだが、彼女の像をみることができる。2人の中世の傑物とキリスト教の力に押されて、異教の古代はランスの歴史の中で消えてしまったかにみえる。
「記憶の歴史学」の観点からランスを眺めると、この町に住む人々は、町の歴史をどのように見ているといえるであろうか。わずかの見学時間では聞き取りをすることもかなわなかったが、私が京都を歩きながらときおり平安時代や室町時代に思いをはせるように、ランスの人々は過去のどのような時代に関心を持つのだろうか。アイデンティティを感じるとすれば、それはジャンヌ・ダルクの中世フランス王国か、クローヴィスのフランク王国であろうか。あるいはローマ時代の都市か、それともレーミー族のガリアであろうか。駅に向かうランス市民は、駅前のプロムナードを歩く時、マルス門をみて古代を思うだろうか。フォルムの地下歩廊は、現在しばしば催しに使われているようだが、そうした催しに参加した時、人々はローマ時代のランスの繁栄に思いをいたすことがあるのだろうか。ランスの人々の歴史意識をぜひ知りたいところである。もっとも、この町から「背教者」ユリアヌスが始動した、などと粋がってランス市を見にやって来るのは、たぶん極東の一風変わった歴史屋だけだろうが。
(南川高志)