古典学エッセイ
古澤ゆう子:ジュピターの嘆き
ドイツ詩人ハインリヒ・ハイネには、基督教席捲で人々の信仰を失った古代ギリシア・ローマの神々の姿を描くエッセイがある(『聖霊物語』Elementargeister 1835/36『女神ディアナ』Die Göttin Diana1846『流刑の神々』Die Götter im Exil 1853など)。不死の神々は、神殿から追い出され、人里離れた山の洞窟や深い森や極地の孤島に隠れ住む。あるいは、変装して発覚の危険におびえながら不遇に耐える。軍神マルスは、傭兵となり、かつて自分が守護神だったローマの攻略に参加しなければならなかった。アポロンは、昔取った杵柄で、下オーストリアで牧童をしていたが、あまりに歌が巧みで疑われ、宗教審問にかけられ処刑された。けれども歌を聞いた女たちが病気になったので、吸血鬼にするよう丸太を突き刺そうと墓を開けると、からっぽだったという。ディオニュソス=バッカスは、僧侶に化けて、一年に一度、秋分の夜にティロルの湖畔で信女たちと昔の祝宴を楽しんでいた。密かにのぞいた漁師が近くの修道院に訴えに行くと、当の院長がバッカスで、お前が見たのは酒に酔った幻覚だ、あまり深酒はするなといなされてしまう。圧巻はヘルメスで、オランダ商人に身を変え、東フリースラントで死者の霊魂を船で輸送する商売に従事している。死者にそえられたペニヒ銀貨でまかなえるよう、渡し守の船代を値切る交渉は堂に入ったものである。黄泉の国のハーデス=プルートーは、地上の宗教変動にもかかわらず妻のプロセルピナと一緒にぬくぬくとねぐらに留まったし、海の神ポセイドン=ネプトューンも海底から亡命する必要がなかった。それどころか、船の水夫たちにとって、三つ叉鉾持つ銀髭の海神の実在と力は、いまだに自明のものである。
しかし、主神ゼウス=ジュピターは哀れなもので、彼は北極近い孤島で、嘆き悲しむばかりという。氷山に囲まれ人の行き来もまれな無人島のみずぼらしい小屋に住む老人の相手をするのは、羽根の抜けた大鷲と牝山羊。たまたま訪れたギリシア水夫から、壮大だった自分の神殿が崩れて廃墟となった様子を聞くと、手で顔を覆って子供のように泣く。乳母の牝山羊アマルテイアは悲しげに鳴き、主人の嘆きを鎮めようとするかのように手をなめてやるのだった。
主神の眷属たちが、それなりに居場所を見つけて自分の技で活動を継続発揮しているのに、これはどうしたことだろう。主神だけが新しい世界に、まったく順応できずにいる。それは、神々と人間の王、ゼウス=ジュピターの役割が支配者で、活動分担(モイラといってもいいが)が統治だったからではないかと考える。統治者が交代しても、軍事や商業や牧畜は技として継続され、酒宴も開かれる。だから、バッカスの従者シレノスは修道院の料理番、パーン=ファウヌスは修道院の食料番の役目を生き生きとこなしている。女神たちも魔女扱いされながら、美神はヴェヌス山と呼ばれる楽園で当代一流の歌人タンホイザーと甘い生活、アルテミス=ディアナは、さっそうとした女狩人姿で騎士たちを魅了する。死者の赴く地底や、波風の支配する海洋という地域も大きな変化を蒙らない。
しかしながら、支配権は独占的なものであり、カトリック教会も、ギリシア正教も、そしてギリシアを征服した回教も、教会支配に関しては、他の権力の入る隙間を容認しない。教会と熾烈に争った世俗の皇帝や王侯も、ゼウス=ジュピターの権威を認めず助力も仰がない。かつての主神は、孤島でさびしく不死の命を無為に費やすほかないのである。
(古澤ゆう子)