コラム

宮城徳也:藤村泰司氏とギリシア語・ラテン語教室「エリニカ」

 堺市在住の実業家の藤村泰司氏が亡くなったのが,2003年の7月20日,1938年のお生まれなので,享年66歳だった.

 藤村さんは実業の人だったが,堺の商業高校から1956年に関西大学商学部に進み,そこでフランス語とラブレーに出会い,ルネサンス文学に親しんで西洋古典語と古典文学に興味を抱かれた.卒業後は,家業を引き継いで,聴講生としてまず同志社大学で古典語を言語学の岩倉具実教授から学び,続いて京都大学の西洋古典教室に通い,ギリシア語,ラテン語,古典文学を学ばれた.当時の関西大学では古典語クラスの受講生が少なかったので,同志社大学の聴講を勧められ,さらに同志社でも本格的に学ぶために京都大学での聴講を勧められたと聞いている.その当時,京大西洋古典教室の主任教授でいらした松平千秋教授との出会いがあり,終生松平教授を深く尊敬しておられた.

 藤村さんが同志社で何年学ばれ,いつ京大に移られたか今回は資料が無く調べ切れていないが,中務哲郎京都大学名誉教授のご記憶によれば,中務教授をはじめ4人が西洋古典教室に学部三回生として進級された1967年には既に数年聴講生として在籍されていたとのことである.

 私は藤村さんと十年を越えるおつきあいをさせていただき,薫陶を受けたので,記憶が正確ではないかも知れないが,藤村さんから直接多くのことをお聞きした.それに拠れば,京都大学に通っていた時に,広島大学の関本至教授が現代ギリシア語の集中講義を担当されたが,お仕事に忙しかった藤村さんはその集中講義を聞けず,そのことが心残りだったそうだ.

 求める人には縁があるということだろうか,ギリシア領事館にお務めの松岡妙氏と出会い,その縁で,大阪北浜で,現代ギリシア語を学ぶ教室を開き,松岡氏が授業を担当なさった.松岡氏は東京の大使館に転勤となり,後任としてギリシアに留学経験のある画家の藤下幸子氏がその後長く現代ギリシア語を担当された.

 その間に,藤村さんに古典ギリシア語とラテン語に関する問い合わせがあり,それらの科目も開講することになった.古典ギリシア語,現代ギリシア語,ラテン語のそれぞれ初級文法と中上級クラスの2つずつを開講科目として提供する語学教室エリニカが誕生した.エリニカとは現代ギリシア語で「ギリシア語」を意味する.

 場所は一度変わったと聞いているが,北浜のビルの一室を借りて,金曜日の夜だけその教室は開かれた.こうした教室が成立するのは,京都,神戸やそれらの周辺都市も含めて広域に大規模な人口を擁する関西地域の中心である大都市大阪だからであろうと想像している.

 開校にあたって,松平教授のご助言をいただき,少なくとも古典語の講師は,京大西洋古典教室の大学院生が務めた.古典ギリシア語の初代講師は久保田忠利氏,ラテン語の初代講師は大西英文氏だったと聞いている.古典ギリシア語は,故・下田立行氏,岩崎務氏,西田卓生氏,山沢孝至氏,吉武純夫氏,佐藤義尚氏が継承し,ラテン語は,高橋宏幸氏,古典ギリシア語も担当された岩崎務氏,私,五之治昌比呂氏が継承した.

 エリニカは1978年から2001年まで23年間続いたが,金曜日の夕方6時から9時までの3時間,古典ギリシア語,現代ギリシア語,ラテン語がそれぞれ初級と中上級の2クラスずつ開講され,各クラス1時間半ずつで休憩は無く,受講者は期によっては一人もいないこともあったし,中上級は継続して受講される方が多いので10人を超すこともあったが,概ね2人から7,8人であったと記憶する.会社員,大学職員,公務員,小学校教諭,会社経営者,大学教員,自営業など,受講者の職業は様々であった.

 現代ギリシア語はその性質上,講師が独自にまとめた教材が使用され,京大に留学していたギリシア人,キプロス人が隔週に中上級のクラスで藤下氏を補佐していた.古典ギリシア語は田中美知太郎/松平千秋著『ギリシア語入門』(岩波書店)を,ラテン語は中山恒夫『標準ラテン文法』(白水社)を初級の教科書とし,中上級では様々な散文,韻文のテクストを講読したが,ラテン語は私が担当した期間はウェルギリウス『アエネイス』,カエサル『ガリア戦記』をテクストにした.

 私は大学院在学中,非常勤講師,専任講師の時代,計10年間エリニカでラテン語の文法と講読を担当し,その間『アエネイス』を全巻読破するという稀有の体験をしたので,現代ギリシア語を二代目講師として最後まで担当された藤下さんを除けば最も長くエリニカの講師を務め,藤村さんとも長く付き合ったと言えると思う.1998年から勤務先が東京になったので,エリニカ講師を辞した.

 藤村さんがエリニカを開校した「建学の精神」は「中学を卒業しただけの方でもきちんと学べる」ということだった.やさしく,分かりやすく,丁寧に教えることが講師には求められた.実際には受講者は高学歴の人が殆どだったので,藤村さんの精神が,本当に実現したかどうかは微妙なところだが,それでもそうした精神を尊重することは,講師を務めた先輩方や私の心に染みわたり,その後の教員人生に大きく影響したと思われる.

 また藤村さんの口癖は「水は低い所に流れる」(「低い」は第一音節にアクセント),「足踏まれたら痛い」であった.これらのことを「摂理」と言っておられた.私も含め,当たり前のことをわかっていない人間の多い世の中だから,含蓄の深い言葉に思われた.

 私が東京に移ったその年に,エリニカは開校20周年を迎え,11月28日に北浜の三井ガーデンホテルで祝賀パーティーが開かれた.私も出席させていただいたが,その時の岡道男京都大学名誉教授のスピーチが素晴らしかった.その原稿は,京都大学西洋古典研究会発行の『西洋古典論集』別冊(2001)に「古典ギリシア文学」の題名で収録され,京都大学学術情報リポジトリ「KURENAI 紅」でウェブ上のpdf原稿で読むことができる.

 その同じ号に藤村さんが執筆された「岡先生への想い出と感謝」と題した文章が掲載されており,それに拠れば,岡教授はご体調がすぐれず入退院を繰り返しておられ,この時も原稿が代読されることになっていたのを,ご不調を押して出席され,感動的なスピーチをされたことが述べられている.岡教授は10周年の時にも,松平千秋名誉教授とともに挨拶をされており,藤村さんと西洋古典研究室の出会いが幸福であったことを想起させる.

 上記の別冊には「岡道男先生追悼文集」との副題が付されている.岡教授はエリニカ20周年から約1年3か月後の2000年3月3日に逝去された.高槻で行われた葬儀には多くの人が参列されたが,この時,葬儀の後で藤村さんと食事をし,岡教授を偲んで献杯をした.これが,私が藤村さんとお会いして直接話をした最後の機会だったと思う.その後,藤村さんも体調を崩され,エリニカを閉校した.エリニカの名は藤下氏が継承され,現在まで続いているが,藤村さんのエリニカは幕を降ろした.そして,その後,藤村さんは亡くなった.ご長女がおられるので,エリニカのことは「次女エリニカ」と言って,限りない愛情を注いでおられた.

 私は10周年を迎えた年から,安定から完成に向う十年間関わらせてもらったので,草創期を知らない.私が講師を務めていた時期にも,受講者の皆さんも講師も参加する懇親会が少なからずあったが,草創期は個性的なメンバーで必ず飲みに行っていたようだ.「珍竹林」と言う東梅田の店で,私も一度か二度ご一緒したことがあるが,ウェブ検索すると今でも同地にあるようだ.

 岡教授のご葬儀の時,これが,私の記憶に残る藤村さんの最後の言葉だが,「岡先生(先生の第一音節にアクセントがあり,「せんせい」ではなく「センセ」に聞こえる)の人徳で,人が集まり,多くの再会の機会を持つことができた」と言う趣旨のことをおっしゃった.

 藤村さんの口癖が他にも幾つか思い出される.「どうせ死ぬんや」,「近所が大事や」,「人間,ココロやなあ」とよくおっしゃっておられた.酒はとことんビールで,藤村さんが酔いつぶれたのを私は見たことはないが,本人が一人では「ベロンベロン」になるまで飲むと言っておられた.

 藤村さんの言葉通り,ご葬儀は多くの人を集め,その後,難波で先輩方としたたかに飲み,藤村さんの用語を借りると「ベロンベロン」になった私は一人で,関西在住の時に好きだった難波の町を「藤村さん,なんで死んだ」と呟きながら彷徨した.藤村さんの言葉として忘れがたいものは幾つもあるが,「私みたいなもんがこんな勉強をさせてもらったので、エリニカは社会への恩返しだ」と言う趣旨のことを言っておられた.エリニカに総計でどれだけの人が学んだかを考えると,立派に社会への恩返しを果たされたと思う.

 クラシック音楽が好きだった.ウィーン・フィルのコンサートマスターだったライナー・キュッヒル氏と友人で,同氏はエリニカ10周年の祝賀会で,ピアノ伴奏のヴァイオリン曲を演奏されたが,藤村さん個人には,私的な場所でバッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」を演奏して下さったと聞いた.

 ワーグナーとアルバン・ベルクが好きだった.ワーグナーに関してはバイロイト音楽祭に何度も行かれた程だ.夜ひとりで音楽に聴き入り,「純粋抽象」の世界に入るのだと言っておられた.私はその境地になったことがないので,黙って話を聞くだけだったが,今思えば,音楽というものの本質を的確にとらえておられたのかも知れないと思う.

 歌舞伎もお好きでいらしたが,当時の私には遠い世界で,聞いているときの乗りが悪かったのだろう,これについては私には話甲斐がないと思われたのか,特に熱弁をふるわれたことが無かったが,ご自宅に泊めていただいた際に,勧進帳の弁慶の仕草をまねて見せて下さった.

 「岡先生追悼文集」に木村健二氏の文章が掲載されており,そこには岡教授がワーグナー派,藤村さんはモーツァルト派と書かれている.私の記憶では,藤村さんは勿論モーツァルトがお好きだったとは思うが,どちらかと言えば熱く語るのはワーグナーだったように思う.岡教授がワーグナー,藤村さんがモーツァルトを高く評価したその場に私は居合わせなかったので,木村氏がそうおっしゃる以上,私が知り合う以前の少し若かった藤村さんはあるいはそうだったのかも知れないし,私の記憶が不確かなだけなのかも知れない.そう思うと,藤村さんとの個人的なつきあいをもとに縷々述べてきたが,受け取り方は人さまざまだし,藤村さんにも私が知らない多くの面があったことは言うまでもない.

 多くの人が型破りの人物と思っている藤村さんだが,家業を継ぎ,それを発展させ,お子さんに引き継いだ堅実な「堺の商人」で,勤勉を徳とされていた常識人でもあった.稀有の語学教室エリニカも藤村さんのしっかりとした経済力があって成り立ったのである.

 藤村さんが亡くなって既に10年以上が過ぎ,京大西洋古典研究室出身の先輩方でも亡くなった方が少なくないので,藤村さんと直接つきあいのあった方も減り,若い人が藤村さんのことを聞けば,神話の時代の話と思うであろう.しかし,藤村さんは間違いなくいらしたし,関西で西洋古典学を学んだ人々に深い印象を残した.

 エリニカで多くの人に出会うことができた.それについて語りたいことは少なくないが,随分,取り留めもなく,多くのことを語ったので,ここまでとしたい.藤村さんのような人は,東京にはもちろん,大阪でも今後現れることはないだろう.藤村泰司氏と出会えたことは,岡教授の講筵に連なることができたことと並んで,私の生涯の財産なので,今後ともそれを大事にしながら,生きて行きたい.

(宮城徳也、早稲田大学)