コラム
羽田康一:研究集会+講演会「リアーチェのブロンズ」を終えて
2016年11月10日(木)、メッシーナ大学古代現代文明学科(Dipartimento di Civiltà Antiche e Moderne, Università degli Studi di Messina)とレッジョ・カラーブリア国立考古博物館(Museo archeologico nazionale di Reggio Calabria)で研究集会+講演会「リアーチェのブロンズ──図像学と実験研究」(I Bronzi di Riace: Iconografia e Ricerche Sperimentali)が開催された。
9:00-14:00にメッシーナ大学で研究発表7本、17:00-19:30にレッジョ・カラーブリア国立考古博物館講堂で研究発表2本の後、ブロンズの部屋(Sala dei Bronzi)で、すなわち「リアーチェのブロンズ」(イタリアでは「リアーチェの戦士」をこのように呼ぶ)の前で、質疑が行われた。私の印象ではメッシーナでは学生・教員合わせて100人ほど、レッジョでは一般人・報道陣合わせて100人ほどが参加した。メッシーナとレッジョはメッシーナ海峡によって隔てられており、対岸にはトラゲットで移動した。(添付地元新聞記事を参照。例によって技術に関する部分は間違いが多いが、少なくとも写真の選択は優れている。)
9本の発表は日伊交互に次の順序で行われた。所属は羽田康一が東京藝術大学、松本隆と黒川弘毅が武蔵野美術大学、イタリア人4名はメッシーナ大学古代現代文明学科。
(1) 松本・羽田 「リアーチェのブロンズ」の粘土原型の再現制作(ヴィデオ発表)
(2) Elena Caliri 戦利品としてのギリシア美術
(3) 松本・羽田 「リアーチェのブロンズA」右足に適用された楕円形鑄掛け熔接の再現制作
(4) Mariangela Puglisi 古代英雄の図像学
(5) 羽田 「リアーチェのブロンズ」足枘と手中の鉛の鉛同位体比計測
(6) Grazia Salamone ポリスの擬人表現
(7) 黒川「リアーチェのブロンズ」第三次修復における内視鏡観察
(8) 羽田「リアーチェのブロンズ」の色彩の古代史
(9) Daniele Castrizio 「リアーチェのブロンズ」の「方法」
「リアーチェA」の右足に適用された楕円形鑄掛け熔接の再現実験は世界初の試みで、私たちの発表の中でも最も注目を集めた。詳細な工程説明と豊富な記録写真を使った発表に加え、様々な技法で試行したブロンズの足3組(熔接前の3部品=足の後ろ半分+前半分+中指=の状態のものと、熔接後のもの。一組7−10kg)と蠟の足1組(3部品の状態)を机の上に並べ、聴衆に手に取ってもらった。これにより私たちの再現制作の目的が古代の鑄造技術の解明にあり、例えば最近ブリンクマンがしたような、お手軽なコピー制作(Brinkmann 2013, 2015。3Dデータの立体出力によって形をコピーし、それをもとに完全に現代の技術でブロンズ鑄造し、にも拘わらず古代の技術によると詐称し、あろうことかそれに大理石の感覚で色を塗る)とは次元が異なることを強くアピールできたと思う。ギリシアブロンズの最大の特徴は分鑄+鑄掛け熔接にある。分鑄+熔接の視点から見ると、BはAよりも相当進化しており、両者の様式の違いも一部は技術的追究の結果かと思われるほどだ。(ウェブ記事を参照:http://www.archeostorie.it/archeostorie/rifare-a-mano-i-bronzi-di-riace。この記者は2010年の第一回調査以来毎回私たちの調査研究の取材を続けており、この記事には私も手を入れたので間違いが少ない。写真は私たちが提供した。)
内視鏡観察に関する発表は、第三次修復に従事した人たちの仮説(Donati 2014)とは異なる仮説を打ち出している。図をいくつも示さないと説明できないのでここでは詳述しないが、同じ間接法説(蠟原型の制作に牝型を使い、その内面に蠟を張ったとする説)でも根拠とする事実が異なる。
色彩についての発表では、前5世紀中頃アルゴスにおける第一次利用(群像か単体かについては保留する)ではABとも地金色で展示され、前1世紀頃ローマにおける第二次利用(群像)では当時ローマ人の間で競って求められた「コリントスのブロンズ」の影響下、全身に黒くパティナが施された可能性があるとした。発表の時点では、「リアーチェAB」の黒色被膜はこれまでの研究ではCu2Sすなわち自然生成物と結論されているが、CuSすなわち硫黄の塗布による意図的な着色なのではないか、そうだとすれば第二次利用ではABともに黒色、でなければ新規制作したBの両腕だけ緑青色のパティナを着けた、と述べるにとどめざるを得なかった。ところが帰国した二日後、博物館に提出されたばかりの錆についての報告書が届き(Buccolieri et al. 2016)、そこではABに残る黒い被膜はCu2Sではなく、CuSになっていた。私たちの黒色仮説が裏付けられたことになるが、こんなに簡単に結論が覆っていいものか。いずれにせよ再現制作では緑と黒、両方とも試みる所存である。
滞在中(11/4-12)仲間と毎日「リアーチェ」を見ながら考え続け、博物館のすぐ近くの宿で前夜までみんなでパワーポイントのイタリア語版スライド原稿の推敲に追われ、果ては打ち合わせに来たカストリツィオにイタリア語を直してもらったりもした。時間切れで悔やまれることも多いが、何とか乗り切れてよかった。
「リアーチェ」の解釈については、アルゴスの「テーバイ攻めの七将」神話と結びつける解釈が主流で、現在モレーノ説(Paolo Moreno: A=Tydeus, B=Amphiaraos)が定説となっているが、カストリツィオ説(A=Polyneikes, B=Eteokles, 失われたC=Euryganeia?)にも支持が拡がっているように見受けられる。これらの仮説はABとも鑄造土について、以前の分析以上にアルゴスの土だと確証する最新の分析結果(Jones et al. 2016)と合致する。当日博物館で出版が紹介されたカストリツィオの本にはこれまでの主要な諸説がまとめられている(D. Castrizio et al., Bronzi di Riace, 2016。内容は彼のサイトとほぼ同じ:http://www.bronziriace.it)。ただ彼の主張する、二体ともレーギオン出身彫刻家ピュータゴラースの作だとは考えられない。両者は技術的にも様式的にもきっぱりと異なる。それは上記分鑄+熔接の視点からも言えることである。
以上の口頭発表はイタリア語の論文集(Atti)として刊行する所存だが、その前に日本側の分だけ日本語でアジア鑄造技術史学会のFUSUSに掲載する予定である。
研究集会に先立ち、11/5(土)、羽田のこれまで20年をかけたギリシアブロンズ研究、とりわけ「リアーチェ」研究に対し、レッジョ・カラーブリアのアナクシラーオス文化協会(Associazione Culturale Anassilaos)からアナクシラーオス賞が授与された。この賞にはレッジョ市+メッシーナ市の名誉市民的な意味合いがあり、団体・個人合わせて今年は30件ほどが受賞した。アナクシラーオス(Anaxilaos)は前5世紀第1四半期のレーギオン(Rhegion=Reggio)のテュランノス(僭主)で、「リアーチェの戦士」の作られた紀元前5世紀ギリシアと直接繋がれる感じがすることが私には嬉しい、ということを挨拶で述べた。私と同じく外国人に授与される「ヨーロッパ市民賞」(Civitas Europae)を受けたフランス、シャンパーニュ大学のローマ法の先生は1ヶ月間メッシーナ大学の客員教授として滞在中だったが、私も来年度同大学でギリシアブロンズについて講義をすることになっている。それまでには自前のウェブサイトを開設する必要がある。
私は1995年から6年間ローマに滞在して、ギリシア美術の大家パオロ・モレーノと、「リアーチェの戦士A」の第一次修復家で実験考古学を推進していたエディルベルト・フォルミッリ(Edilberto Formigli)に師事した。モレーノからは励ましのメールをいただいた。健康の悪化を伝え聞くフォルミッリから返事はなかったが、こちらとしては彼の研究を受け継ぐ再現制作の発表の中で、感謝の意を表明した。私たち日本側は引き続き「リアーチェのブロンズ」がどのように作られたかを追究し、数年後、第一次利用と第二次利用の復元ブロンズ像と、塑造原型から蠟原型、鑄造坑、鑄型、鑄込み、熔接、仕上げ、パティナ、基台への据え付け、保存処置に至る全工程を示す作品を展示する展覧会を、レッジョ・カラーブリア国立考古博物館で開く予定である。昨年就任したマラクリーノ館長(Carmelo Malacrino)の理解も心強い。
新聞記事:Martedì 15 Novembre 2016 Gazzetta del Sud (pdf)
羽田康一