コラム
生田康夫:「ホメーロス輪読会」点描
毎週一回、「葡萄酒色の海」ならぬ東京「白金の台地」の一室でホメーロス朗読の声が響きます。明治学院大学言語文化研究所の「ホメーロス輪読会」が1983年に始まって以来、30年間変わらぬ風景です。この場では、西洋古典の諸碩学による蓄積の恩恵に浴しつつ目と頭でテキストの精確な解釈に努めていることは勿論ですが、併せて自分の耳と喉でホメーロスを味わう特権的時間を共有しています。
「輪読会」は初級文法をひととおり終えた人なら学内外を問わず誰でも参加可能な集まりです。メンバーはほとんどアマチュアであり、ホメーロスへの接し方も様々です。アキレウスを始めとする登場人物の人物造型に惹かれる人、詩行の音の響きや色彩感覚を楽しむ人、詩編の随所に散りばめられた清新な比喩を嘆賞する人、古代的語法・見方・思考に興味を持つ人等々。一語一語の読解に日頃忙しさかまけている精神の平衡作用を見いだす人、ホメーロスによって頭の中の「畑」を耕すという人もいます。毎朝夜明け前に『イーリアス』を少しづつ読むことを日課としている根っからの愛好家、更にはホメーロスに命を賭けるという猛者もいます。
先日「輪読会」で、「鎧から弾かれた矢」が「箕によって飛ばされる豆」に喩えられる一節を読みました。
ὡς δ᾽ ὅτ᾽ ἀπὸ πλατέος πτυόφιν μεγάλην κατ᾽ ἀλωὴν
あたかも広い穀打ち場で大きな箕から (『イーリアス』13-588)
ではじまる一節です。πτύονは箕とはいっても、(竹製ではなく)金属製か木製であり、シャベルに近い農具ではないかと考えられます。いずれにせよ豆を空中に投げ上げ殻と実を振り分けるという原理は共通しています。
つい数十年前まで日本の田舎で、そして世界各地の田舎で、身近に目にしたこの情景が、二千数百年前の詩人によって活写されていることに驚きました。と同時にそのような情景、身体に親しい生の営み・手触りの感覚が急速に失われつつある現代という時代に思いを致しました。そういう時代であるからこそホメーロスの詩編が、また新たな意味を持ち、一層輝き増すのかも知れません。
生田康夫