コラム

勝又泰洋:イギリス小滞在記(7):古典学部の授業

 できるだけ多くの授業に顔を出す。これだけは決めていた。世界にその名を轟かすオックスフォード大学古典学部なのだから、そこで行われる授業も刺激的なものばかりに違いない。滞在開始直後、私は高揚した気分で開講授業リストを覗いてみた(私が滞在した期間は、トリニティ・ターム(Trinity Term)と呼ばれる、3学期あるうちの第3学期で、授業は、4月半ば開始、6月半ば終了だった)。ところが、である。そこにある題目群には、期待していた「派手さ」がない。「ヘーロドトスの歴史記述」、「ギリシア悲劇」、「ラテン抒情詩」。どういうことだろう。ここの教員は、自分の研究に大半の時間とエネルギーとを費やし、授業は適当にすませているのだろうか。

 さて、私の考えがまったくの見当はずれだったことは言うまでもない。さまざまな授業に出席したが、私はそのどれに関しても、授業を行う人間に、研究者そして教師としての誠意を感じた。いくつもの出来事が思い浮かぶが、ここでは、その中でも最も印象深かった、私の受入教員ティム・ホイットマーシュ先生(本シリーズ第4回で紹介)の授業について話をしたいと思う。

 題目は、「紀元前5世紀のギリシア文学」。講義が行われたのは、イグザミネーション・スクールズ(Examination Schools、その名が示す通り、本来は学生の試験のために使われる巨大な建物であるが、その中の一部の部屋は講義室としても使われていた)の一室。中に足を踏み入れると、まずその広さに驚いた。そしてこう思った。ギリシア文学の授業をするのにこのような部屋を使う必要があるのだろうか。いくらオックスフォード大学古典学部といっても、ひとつの授業にそれほど多くの学生が集まるわけはあるまい。事実、私が到着した授業開始約10分前の時点で、部屋にいた学生はたったの2、3人だったのである。

 この不思議な空間に少々戸惑いながらも、とにかく先生の話がよく聞こえるよう、私は前の方の席をとって、授業が始まるのを待つことにした。そうして5、6分ほど経ったときだろうか、部屋の外から多くの人の声が聞こえてきた。気が付いて後ろを振り向くと、学生が次から次へと部屋の中に入ってくるではないか。前の授業が終り、引き続きこの授業に出席しようという学生たちらしい。しかし度肝を抜かれたのはその数である。最終的には100人以上はいたのではないかと想像する。部屋の中ぎっしり。ガヤガヤガヤガヤ。 その事態に面喰っていると、次第に部屋が静かになり始めた。先生が来たようだ。ハンドアウトと思われる紙を大量に抱えている。準備の様子から判断して、これほどの人数は先生の想定の範囲内だったようだ。やはりオックスフォードは桁違いということか。前の方の席に座っておいてよかったと安心した私であった。

 授業スタート。まずはハンドアウトが配られていく。受け取ってぎょっとした。横に英訳が付されてはいるものの、そこには大量のギリシア語原文が載せられている。出席者の大半は学部生であるだろうが、彼らはこれを読むことができるのだろうか。先生が口を開いた。まずはテーマ紹介。今回扱うのは「パフォーマンス」です、と。この単語にも意表を突かれる思いであった。「パフォーマンス・スタディーズ」とか「パフォーマンス理論」とか呼ばれる方法論ないしアプローチ手段は、とりわけ人文学の分野でごく最近注目を浴びるようになったもので、西洋古典学においても、この視点を採用した研究書をよく見かけるようになった(例えば、Simon Goldhill and Robin Osborne (eds.), Performance Culture and Athenian Democracy, Cambridge, 1999などは、その代表例といえるだろう)のは事実である。しかし、あくまでこれは専門家のあいだの話であって、「パフォーマンス」の問題を、今回のような入門レベルの授業で取り入れることに私は驚いてしまったわけである。しかし、先生の話を聞いていくうちに、ひとつのことがはっきりとわかった。どうやらこの授業は、そもそも「入門編」、つまり、紀元前5世紀のギリシア文学の代表的な作家・作品の紹介などを行うようなものではなく、むしろ、この時代のテクストをさまざまな批評道具を用いて読むという、実験的要素の強い「発展編」だったのである。ハンドアウトに載せられているパッセージも、よく知られた作品からとられたものばかりで、先生は、ギリシア語原文の解説をざっとしたあとで(英訳はほぼ無視)、「パフォーマンス理論」を用いてテクスト分析をする、という手順で話を進めていった。要するに、紀元前5世紀のギリシア文学について大まかな知識を持っていること、ハンドアウト上のパッセージの出典には接したことがあること、ギリシア語原文をある程度の速度で読めること、は大前提とされており、主眼は、新進の批評理論の有効性の検証に置かれていたのだ。

 学部生相手にこのレベルのこと(他のテーマは、例えば、「アイデンティティ」、「ジェンダー」、「ディコンストラクション」)が毎週続けられていったわけなので、私は、やはりオックスフォード大学古典学部は途方もない集団だという感想を抱かざるを得なかった。では、1学期間、つまり2ヶ月間、このような集団の中に混じり込み、数多くの刺激を受け続けていった私は、果たして以前よりも少しは利口になっただろうか。なった、と満面の笑みとともに答えたいところだが、容量オーバーで頭がパンクしたというのが真実かもしれない。


イグザミネーション・スクールズに通じる大通り、ハイ・ストリート(High Street)

勝又泰洋(京都大学大学院)