コラム
勝又泰洋:イギリス小滞在記(6):書店ブラックウェル
(諸事情により、前号からかなりの月日をおいての寄稿となってしまいました。これまで拙文を継続してお読みいただいていた皆様には、大きなご迷惑をおかけしてしまいました。この場を借りて、深くおわび申し上げます。)
大学エリア内の大通りブロード・ストリート(Broad Street)沿いに、ブラックウェル(Blackwell)という名の書店が立っていた。学術系書籍の品ぞろえの良さでは、おそらくオックスフォード一の書店である。地下に1階、地上に4階、そしてその階ひとつひとつが、どれも非常に広い。驚くべきは、3階の半分のエリアが、「西洋古典学」のエリアとされていたことである。さすがイギリス西洋古典学のメッカ、オックスフォードの書店。日本の書店では決して作られないであろうエリアである。初めてここを訪れたとき、伝統の持つ力にしばし呆然としてしまったのを覚えている。そしてこう確信もした。ギリシア人とローマ人は、決して死んではいないのだ。
私は、4日か5日に一度はここに赴いていたように思うが、毎回本棚の様子が違っているのには本当に驚かされた。前回来たときに置いてあった本がない。誰かがあれを買ったに違いない。それも1冊や2冊というレベルではない。書棚のあちこちに新たな空間ができている。毎日、途切れることなく、ギリシア語とラテン語は読まれ続け、古典世界に関する研究書は人々の想像力をかきたてているのだ。そんなことがわかっただけで、私は、嬉しくてたまらなかった。また、そのエリア担当の店員さんたちにも脱帽することしきりだった。彼らは、とにかく一冊一冊の書籍に強い気持ちをもって接していた。おそらく学生時代を通じて古典語を学び続け、今に至るまで古典を愛してきた人たちなのであろう。お客さんが少ないときには、商品を手に取り読書を開始し、ときには、仲間の店員さんたちとその内容について実に楽しそうに会話を交わしていた。問い合わせのためレジに来る人たちを友人のように扱う彼らの姿は、感動的ともいえるものだった。遠い東洋世界からきたこの私のことをも、彼らは西洋古典学の同朋とみなしてくれた。
さて、エピソードをひとつ。ある日のこと、店内に入ると、入口付近にチラシが置いてあるのに気がついた。ご自由にどうぞ、と。見てみると、テリー・イーグルトン(Terry Eagleton)が近々この書店で講演を行う、と書いてあるではないか。テリー・イーグルトンとは、あのテリー・イーグルトンのことである。相当に若いときに(おそらく20代半ばか30代初めかで)、まずはマルクス主義批評を駆使した文学作品解釈で頭角を現し、以後、現在(70歳くらいか)に至るまで、文学(批評)理論、文化理論に関する本を恐るべきスピードで次から次へと刊行し続けている、世界的に有名なあの男である。彼の書いたものはその大半が日本語に訳されているので、馴染みのある方も多かろう。かく言うこの私も、『文学とは何か』(原題:Literary Theory: An Introduction)を学部生のときに読んで以来、彼のユーモアとウィットあふれる文章、そして何よりもその強烈過激な皮肉口調に魅了されてしまい、かなりの著作を読み込んでいたのだった。そんなイーグルトンを生で見られる、そして、話を聞くことができる機会など、そうありもしないと思ったため、私は即座にチケットの購入を決めた。
講演会当日、地下階の特設会場に足を踏み入れると、講演開始までまだそれなりの時間があったにもかかわらず、そこはすでに人であふれていた。やはりイーグルトンクラスの人物になると、注目のされ方が違うのだろうか。講演の趣旨は、近著Why Marx Was Rightの内容を、店の売上増加も狙ってのことだろう、著者自ら簡潔に紹介する、というものであった。イーグルトン節は、早くも出だしで炸裂した。彼はまず、その題名に見える、「was」という語をトピックに掲げた。「この本を出して以来、周りの人によく聞かれましてね、なぜ、『is』ではなく『was』なのか、と」確かに、不思議である。著者はマルクス主義の信奉者なのだから、「is」でなければならないのでは。「私はこう答えるんです。マルクスは故人ですから、ってね」まったく、やってくれる。会場を一気に盛り上げてしまった。講演は、結局、このような調子でときに聴衆から笑いを引き出しつつ、小一時間で終了した。
古典世界を愛する人々が日々足を運び、イーグルトンのような有名人がひょっこり顔を出すブラックウェル。微量の奨学金頼りの若き古典学徒は、この書店に、当然、何度も苦しめられた。いったん入ってしまうと、手ぶらで出ることを許してくれない、恐怖の館。本を購入した日は、その本だけを見て、財布の中身はもう見ない。夜は、食パン一枚をかじっておしまいである。
勝又泰洋(京都大学大学院)