コラム
西村賀子:豪華客船のオデュッセウス
2013年5月中旬から約2週間、地中海クルーズに業務乗船してきました。そこで、あまり学問的な報告ではないのですが、寄稿させていただきます。
業務乗船の内容は、航行中の船内でのギリシアについての講演やギリシア文字の手ほどきなどで、計5回行いました。このようなカルチャーセンター的な講師は何人かいます。たとえば、イスタンブールとニューヨークの区間で乗船したドナルド・キーン氏は常連講師とのこと。一部の区間のみ業務乗船する人は教養系のほかにもジャズバンドや歌手、ピアニスト、ヴァイオリニスト、お笑い芸人、落語家や和菓子職人など、その時々でじつに多種多様です。ただし気功の先生やプロの写真家、クルーズライター、そしてダンスパートナーの方々は全区間乗船、3か月もの長期拘束です。ちなみにこの船は日本籍で、乗客のほとんどは日本人。ご高齢の方が圧倒的に多いようです。100日を超える世界一周船旅の一部に私が合流したのは、バルセロナからです。乗船後、ナポリ、ヴェニス、ドブロヴニク、イスタンブールに入港し、ピレウスで下船してアテネ空港から帰国しました。地中海域は人気があるので区間乗船客が急増し、バルセロナからは90名もの客が乗り込みました。その多くはイスタンブールで、あるいはアテネ・ミコノス観光の後にリスボンで下船します。
『オデュッセイア』関連本を昨年上梓する機会に恵まれたこともあって、地中海を船で渡る体験は私にとっては、労苦に満ちたオデュッセウスの放浪に思いを馳せる旅でした。ポセイドンの怒りに翻弄され、日に夜を継ぐ波との格闘に疲れ果て、知恵を絞って巨人や怪物をたぶらかし、どうやって胃の腑を満たそうかと頭を悩ませたオデュッセウスの苦しい旅をしのぶと、超近代的設備を搭載した大型客船での三食昼寝つきの能天気な航海は、比較することすらおこがましく、やや申し訳ない気分でした。
それでも、悠久の時を超越して変わらぬ「海」あるいは「自然」を感じることができたのは大きな収穫でした。夜明けから日没までさまざまに表情を変化させる海と空、真っ青な空に浮かぶ細い三日月、白く泡立つ航跡、一つ一つの波のなかで一斉にきらめく小さな数々の虹など、その美しさに思わず感嘆の声をもらさずにはいられないものにたくさん出会いました。また、薔薇色の指の曙の女神がヘーリオス(太陽)の馬車を先導するとか、西に沈んだ太陽が馬車ごと巨大な椀に乗って一晩がかりで東の海まで戻るなど、古代ギリシア人の空想がリアルで身近なものに感じられました。
10年もかかって海を渡り諸国をめぐったオデュッセウスは多くのことを学んだと、ホメロスは歌いました。わずか2週間の航海で私が学んだことは二つだけ。一つは、聴衆についての認識の誤りです。船内教養講座の聴衆の多くがすでに何度もクルーズを経験し、乗船客の三分の一が世界一周のリピーターだということを知ったのは、講演の数日前。パワーポイントの大幅修正はもう間に合いません。ギリシアを訪れる以上やはりまずパルテノン神殿について話すのがよいだろうと日本で準備を進めていたのは、完全な誤算でした。アテネを歩く人よりも、ミュケーナイやエピダウロスへのオプショナルツアー参加者のほうが多かったので、私の話は聴衆の期待に沿ったものではなかったようです。ついでに言うと、ナポリも初心者が少ないのか、ナポリ市内観光よりもポンペイ・ツアーのほうが断然人気が高いのでした。
航海で学んだもう一つのことは、超現代的なものが洋上では不便だということです。たしかに、便利な諸設備のおかげで、普通の暮らしがそっくりそのまま海の上で満喫できます。ウォッシュレットつきの水洗トイレはもちろん、ジャグジー風呂にドライとミストの二種類のサウナを備えたスパ、一日3回上映の映画館、社交ダンス用のフロア、トレッドミルなどのトレーニングマシーンがずらっと並び、インストラクターが常駐するフィットネスセンターなど、およそ陸上で楽しめる限りの近代的な設備が(というよりも、これまで経験したこともない設備まで)そろっています。
ところが、今や日常生活に不可欠なインターネットが海ではあまり役に立ちません。接続に思いっきり手間取り、10分間トライしてもつながらず、1000円のカードが残り度数ゼロになることも。そこでインターネット以外の方法で外部と通信できる特殊なメールが用意されていますが、送信・受信それぞれに200円かかり、ちりも積もれば山(200円は決してちりではありませんが)。請求書が届いてびっくりします。
オデュッセウスの冒険とはあまりにも違いすぎる旅ながらも、地中海はやはり葡萄酒色の海。これをMare nostrumと呼べない東洋人だけど、その魅力には抗しがたい。そのことをあらためて認識した船旅でした。
西村賀子
メッシーナ海峡 ©Edd48 / Wikimedia Commons
ピレウス湾 ©Nikolaos Diakidis / Wikimedia Commons