コラム
河島思朗:凱旋門
「凱旋門」という言葉を聞くと、多くの人はパリのエトワール凱旋門を思い浮かべるのではないだろうか。シャンゼリゼ大通りの端に位置するこの凱旋門は、世界でも有数の観光地になっている。だがその起源は古代ローマの凱旋門にある。
そもそも「凱旋門」とは戦勝の記念碑だ。パリのなかだけでも複数の凱旋門が存在する。エトワール凱旋門は、1805年アウステルリッツの戦いに勝利した記念に、ナポレオンがローマに倣って建築させたものであり、新古典主義建築の代表作であるとされる。当然ながら、古代ローマにも多数の凱旋門が存在した。現在でも複数の凱旋門を目にすることができる。そのなかで、エトワール凱旋門が模範としたと言われるのが、コンスタンティヌスの凱旋門である。これは、コンスタンティヌスが312年ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスに勝利したことを記念して建造したものだ。現在でもコロッセオのすぐわきにそびえ立っている。
左:エトワール凱旋門 ©Ger1axg / Wikimedia Commons
右:コンスタンティヌスの凱旋門 ©Alexander Z. / Wikimedia Commons
古代ローマの中心地、フォルム・ローマーヌム(ローマ広場、イタリア語:フォーロ・ロマーノ)で特に目を引くのは、パルティアでの戦勝記念として203年に建設されたセプティミウス・セウェルスの凱旋門だ。凱旋門には対象となる人物の功績を称えた文面とその業績に即した彫刻が刻まれるのが一般的である。セウェルスの凱旋門は、もともと皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルスと二人の息子、通称カラカラとゲタのために建設されたので、三名に対する文面が刻まれていた。しかしのちにゲタの名前が削除されて碑文の文面が書きかえられたといういわくつきのものだ。現在読むことができる文面は以下のものである。
マルクスの息子インペラトル・カエサル・ルキウス・セプティミウス・セウェルス・ピウス・ペルティナクス・アウグストゥス、国父、パルティアの征服者、アラビアの征服者とアディアベネの征服者、大神祇官、護民官職権11度、最高司令官歓呼11度、執政官3度、プロコンスルに対して、そしてルキウスの息子インペラトル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニウス・アウグストゥス・ピウス・フェリクス、護民官職権6度、執政官、プロコンスル、国父へ、最善で最強の元首たちへ。国の内外でのその著しい美徳によって、国家を再建し、ローマの民衆の支配領域を広げたために、ローマの元老院と民衆が(捧げた)。
(本村凌二編著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』88)
セウェルスの凱旋門 Wikimedia Commons
フォルム・ローマールムの東端に建てられている凱旋門には、特徴的な彫刻が刻まれている。これはユダヤ戦争の最後の戦い、エルサレム攻囲戦にティトゥス帝が勝利したのを記念して82年に建設された。ティトゥスの凱旋門にはエルサレムの神殿から戦利品を運び出す様子が描かれている。そのなかにはメノーラーと呼ばれるユダヤ教の象徴である七枝の燭台も見つけることができる。ユダヤの苦難が記されているのだ。
凱旋門は単なる巨大な建造物ではなく、戦争の歴史を伝えるものなのである。
ティトゥスの凱旋門 © Peter Gerstbach / Wikimedia Commons
ティトゥスの凱旋門 戦利品運搬と七枝の燭台 (写真/河島思朗)
河島思朗(東京外国語大、いわき明星大、青山学院女子短期大)