コラム

松本仁助:ライン川畔の悔し涙

 今から52年前といえば、60年安保闘争の年であり、岸内閣によって、新安保条約が、強行採択されたのが、1960年5月19日であった。当時33歳の若造であった私は、ドイツのマインツ大学に留学していたが、マインツでも新聞やラジオによって、新安保条約への反対運動が起こる状況や5月19日の反対運動が最高潮に達した様子が報道されていた。

 東と西の対立が厳しく、ドイツが東独と西独に分断され、東に対する防衛のための米兵が駐留する西独にあるマインツ大学の西洋古典学教室では、学生からいや教授からも、日本人が、この条約に反対するのは、可笑しいのではないか、日本はアメリカの軍事力を必要とするのではないか、と私は、問われたのであった。政治や軍事に関心の薄かった当時の私も、これ程大きな騒ぎになった、新安保条約の採決については、それ相応の知識を得ていた。

 そこで、私は、日本人は、条約そのものに反対しているのではなく、岸首相の条約批准の強引な仕方に反対しているのだ、と説明したのだが、私のドイツ語が稚拙であったので、非常に苦労した。ところが、私の姿を見つけた、有名なカクリディスの助手というギリシア人の留学生マロニデス(古典語もドイツ語も良く出来る、そのうえアプロディテのように美しい奥さんを持っている)が近寄って来て、日本人がアメリカ軍の駐留に反対しているのは、素晴しいことだ、といって握手を求めた。 これにたいして、私は、日本人はアメリカ軍の駐留に反対しているのではない、と言おうとしたが、彼は、訥々とした私のドイツ語に耳を貸さず、外国兵の駐留は、いけないことなのだ、と暗に第二次大戦中のナチス軍のギリシア駐留をさして言った。私は、ドイツ人の学友に済まない、という思いを込めた目で、謝罪の意を示していた。話し終えたマロニデスは、惨めな思いをして立っていた私に、君は、古典文学を学ぶのなら、ギリシアに来るべきだ、と言ってたち去った。この一言は、私に一層恥ずかしい思いをさせた。私は、「では、君は、なぜドイツの大学に来ているのか」という言葉を呑み込んで立ち竦んでいた。

完全に気落ちした私は、大学から下宿に帰り、すぐ近くを流れるライン川の堤に立ち、じっと河の流れを見詰め、自分の下手なドイツ語を悔やんでいた。すると、「ハロー」と声をかけられ、ふり返ると、それは、近くに下宿していて同じ教室でドイツ語を習っているアメリカからの女子留学生であった。彼女は、「なぜ、そんなに悲しそうな顔をしているの」と尋ねた。そこで、「いや、私があまりにもドイツ語が出来ないので」と答えると、彼女は、「貴方は、そこそこ喋っているじゃないの」といい、「努力さえすれば、諦めずに頑張ること、と私は教えられてきたわ。私は、生まれた時からどうにもならない、肌の色に悩まされながらも、この世に生まれて来たのには、それなりに意義があるのだ、と思って、ドイツに学びに来ているのよ」と励ましてくれた。私は、この言葉に吹っ切れて、マロニデスの言った言葉や、ドイツ語の拙さに拘らず、古典文学の習得に精を出すことにした。

松本仁助