座談会(4)

《インタビュー》
『西洋古典学会』発足の頃(4)
—田中美知太郎先生に聞く—

  出席者
田中美知太郎(京大名誉教授)
松平千秋(京大名誉教授)
藤沢令夫(京大教授)
岡 道男(京大教授)
松本仁助(阪大教授)
井上達三(元筑摩書房)
(一九八五・7・6 於京都)

 松平:あのころ、もう亡くなりましたけど、岩波には波木居さんなんかがおられた、かなり雑誌のことについては。

 田中:ああ、波木居君がよく知ってたんだ。

 松平:彼はまだいたでしょうね、山鹿太郎さん。

 井上:古典学会に関係したのは、もう一寸後じゃないですか。

 田中:山鹿君は、まだ若手のほうで、波木居君とか、ああいうのが、もっと上のほうで。

 松平:波木居さんにはずいぶん世話になりましたが、よく叱られましたよ。

 田中:どっちからですか。

 松平:山鹿君が、叱るんです、原稿が遅れているとかなんとか言って。あのころ非常に意気上ってた、彼は。

 田中:それだから、註を後ろにつけるとか。いろんな問題があって、手柄をたてようと、彼は一生懸命だった。

 松平:元気でしたからね。ものすごい権幕でばくの部屋へ入ってきて、「先生、なんとかで困るじゃないですか!」とか言って(笑い)、しょっちゅう怒られてた。

 岡:松本さんが事務を手伝い出したのはさっきの話だと、何年からでしたっけ。

 松本:二十六年の五月ごろですね。卒業直後からですね。

 岡:松本さんが名簿を一生懸命整理しておられたのを覚えています。

 藤沢:学会誌が二十八年ですね。ばくのこの記録によると、二十七年の夏休み前に、田中先生が、私の下宿へ本をもってこられて、コンフォードの『書かれざる哲学』を書評しろ、と。その夏休みに書評を書いたんですけど。

 松平:「ヘルメス」というのは、どうもよくわかんないんだけど。

 田中:「ヘルメス」 って、そう言えはそう言われたような気がしますね。

 松平:『ヘリコン』というのもあるのね。どこかスイスかどこかである。あのころはまだなかったと思うけど。

 松本:「仮称ヘリコン」と、ノートしたのを覚えていますよ。

 田中:とにかく東京で古典学会をやったときに、日本哲学会だかなんかも一緒にやった。岩波に行って会をした覚えがある。同志社の大会のことはなにか書いてあるんですか。

 岡:ええ、編集後記で田中先生がごく簡単に書いておられて、松平先生がおられない、英国へ留学されておられるということを書いてあります。

 藤沢:同志社のときは、十一月六日ですけど、その翌日に橋本関雪邸へ行って、ギリシャの壷を見たんですね。

 田中:あのころ、そういうアトラクションだかなんだかが絶えずあったね。映画を見せたり、ギリシャの歌を聞いたり。

 松平:そうですね。ギリシャの歌は、どこでしたっけ。慶応でしたか。

 松本:慶応です。同志社のときは、清風荘で園遊会を開きました。そのときに初めてレジュメをつけるというのが決まったんです。

 松平:懇親会は、東久邇の別邸でしたね。

 松本:ええ、そうですね。あそこで。

 藤沢:あのころは、山本光雄だとか、岡田正三だとか、あのへんも元気で、飲みっぷりがなかなか見事でしたね。

 松平:この三号には、そのときの発表した方のが載っていると思うんですが、私の記憶では、中村善也さんのエウリピデスのアンドロメダだけですが。

 岡:村治さんの。

 松平:村治さん、そうでしたかね。あのときでしたか。

 岡:ええ。女子大の村治さんが、確かエロスの問題で。

 松平:で、高津さんが、なんか痛烈な批評を言ったときだね。

 藤沢:なんか彼、それですっかり悲観してね、記録を見ると、私のところに村治能就さんが泊まっているんですよ。飲むのにずっと付き合って。

 田中:じゃ、きみのところに、ちゃんと記録があるわけ?

 藤沢:ええ、あります。だけど、二十五年とか二十六年は、ただ全くの純粋の記録しかありませんけど。

 松本:村治さんの件は、柳沼さんが翌朝つかまって、さんざん、いろいろ聞かされたようですけどね。

 松平:村治さんから?

 松本:ええ。村治さんから。

 松平:あのときは、また痛烈にやったね。確か高津さんが。あんなにやらなくてもいいと思うような。ピシャーッと。

 田中:まだ意気盛んだったんだね、少壮の。

 松平:「そんなばかなことないですよ」なんて、あの例の調子でね。

 田中:奈良の大会で、きみが高津君に何か言ったら、高津君に怒られてた。

 藤沢:そうですか。そういうことは覚えていないな(笑い)。

 松平:そうすると同志社でやった人、分りますか、だいたい。

 松本:ええ。中村さんと村治さんと、鈴木雅也さんと、もう一人ですね。確か四人。一日でしょう。  

 松平:あのころは一日ですからね。

 松本:四人か五人ですね。

 松平:早稲田は二日になっていますね。

 田中:慶応では泉井君かなんかやらなかったですか。

 松本:ええ。図書館で。

 田中:あれがありふれた話だったので、眠たくて眠ってしまったんだ。風邪ぎみで風邪薬飲んだものだから。

 松本:確か、もう一人は鈴木雅也さん。岩倉先生が、鈴木雅也さんの発言が悪いって、なんか覚えていますから。

 松平:それと、委員会費を当番校が持つという、初めずっとそうだったでしょう。それがいつからか……。

 藤沢:私が京大へ来てからです。

 松平:評判悪くてね。みんな集めるのに四苦八苦してくれて。慶応が一番豪華でしたね。

 田中:模擬店を出して、大したもんだったね。慶応に限ると思った、大会は。

 松平:あのときは、役者が揃っていましたね。青木巌さん、横部得三郎さんと、樋口勝彦さんと。西脇順三郎さんは来られたかしら。

 田中:ええ。西脇さん、来られました。

 岡:このとき、原納先生がクセノファネスについて発表されて、それが藤沢さんなんかにやっつけられた。

 松本:あれから出てこないようになっちゃったね。

 藤沢:クセノファネスについてという題自体、ものすごく漠然としているでしょう。

 松本:文学者としてのほうを取り扱うつもりだったんでしょう、もちろん。

 藤沢:後で書いて論文にしましたね。東北大学の紀要かなんかに出たのを、僕は抜き刷りを貰った。

 松平:松本さんは、自分で発表されたのは第何回ですか。

 松本:神戸のときですね。だいぶ後です。

 藤沢:私は早稲田のときです。

 松本:そのときは私がタイプを打って、だいぶ間違って、ご迷惑をかけました。

 藤沢:自分でやるべきだっていって、松平さんに帰ってきてから怒られた。

 松平:そういうことは覚えているんだね。

 藤沢:岡さんが胃かいようになって。学会の疲れとかいろいろでしょうけれども、まるで僕が胃かいようにしたみたいにいわれた(笑い)。

 松本:ちょうど学会の終わった日に、先生が帰ってこられたんですね。翌日でしたか。

 松平:だから、同志社の学会は私はいるわけだね。

 岡:あれもお留守だったんです。

 松本:ええ。おられなかった。

 岡:それが二十九年。

 松平:一九五四年に行ったんですから。

 松本:三十年に帰ってこられた。だから、二回、先生は抜けられているんです。

 松平:あそこの陶器を見せてもらったような気がする。その前に行ってるのかな、僕は。

 松本:いや、その後です。

 松平:後ですか。また行ったんですか。

 松本:はい。有名な富永先生が来られたときに、一緒に。で、高田先生が事務報告されたんですね、同志社の場合に。

 松平:だいたい分ってきましたね。東大も、だいたい分ったわけですね。

 松本:東大での発表者はね、四人。

 松平:私も入れて? 私もいましたからね。高田先生と、樋口さんは朗読だけれど、これ、研究発表じゃないわけだね。蛭沼さん。蛭沼さんは、どんなことをやったんですかね。

 松本:蛭沼さんは、聖書のギリシャ語。言語学的に説明された。それも時間がものすごくオーバーして。ご本人が司会の高津先生に時間を聞いておられましたが。仕方がないって、やってもらいましたけど。

 岡:中村善也君が酔っ払ってきて、田中先生に叱られた。

 田中:そうでしたか。

 松平:あれ広島だったか、ふらふらになってて、何を言っているのかさっばりわかんない。

 田中:同じことばっかり言って。

 藤沢:その前に水野君に言われて、鎮静剤を飲みすぎたんですね。壇の上で話をしながら、バサーッと原稿を向う側へ落として、そのたびに壇から降りてきて拾って、やりはじめたと思ったら、またバサーッと……(笑い)。

 松平:朦朧として話していたね。

 松本:なんとか、スケネーの話でしたね、確か。

 藤沢:あれも、その後、論文になりましたね。

 田中:名誉回復したわけだ。

 藤沢:私も、早稲田で発表したときには、前の晩に、変な旅館に泊まったら、団体とぶつかっちゃって朝まで眠れなかった。だから第一声が出ないし。後で論文に書いて、名誉回復……。

 田中:あのころは、司会者なんていうのはなかったのかな。

 藤沢:ありました。私のときは野上さんが司会者を。

 岡:奈良からついたはずですね。

 松平:その前はなかったわけですね。

 岡:ええ。一回目ですから。

 田中:東大だけがなかったんだ。

 松平:東大もなかったですね。

 田中:三回目からだね。だから質問もなかったし、質疑応答がなかった。十人ぐらいいましたか、顧問は。

 松平:そうですね。あのころはずいぶん。落合太郎先生なんかも入っておられましたね。

 松本:新関(良三)先生も、長いことおられた。これも役員の承認を受けられたんですね。

 松平:いつから任期三年ということに決まったのですかね。

 松本:三年に決まったのは昭和三十年の総会です。それまでは任期二年でやっていたんですね。

 岡:昭和三十年の委員会の記録で、「来年四月に投票を行う」とありますから、昭和三十一年の四月に、恐らく最初の投票が行われたんだと思います。

 松平:そうすると、学会誌に書いてあるわけですね、当然。

 岡:五号を持ってくればよかったんだな。五号を見ればわかりますね。

 松平:だいたい、おぼろげながらわかってきましたね。

 田中:先史時代がちょっと……。

 松平:考古学は田中先生か……。

 田中:日記には書いてないですね。

 松平:田中先生の『時代と私』というご本を拝見しますと、大変詳しいのですが。あの頃はまた、とくに日記を詳しく書いておられたんですか。

 田中:そうなんでしょうねえ。感想を書いたりすることが多かったから。学会でも誰と誰が研究発表したなんていう記録はないわけですが、誰がよかったとか、誰がくだらなかったとかいうのは、うっかりすると書いてあったりするけど。

 松平:学会が二日間にわたってやるようになったのは何年からですか。

 岡:早稲田からじゃないですか。

 松本:慶応からです。

 岡:慶応は一日ですよ。

 藤沢:早稲田だ。田中先生と高津先生の講演が組まれて、それで日程として、どうしても二日にならざるを得なくなった面もあるんです。

 松平:そうすると、三十年ぐらいですか。

 岡:三十一年十一月。

 松本:しかし、学会にしても、初期のほうが鮮明ですね。後は、どこでも同じような感じですね。

 松平:オーラル・ポエトリーのほうが確かだ(笑い)。

 田中:先史時代のほうが。

(第一回終わり)

 〔本座談会は、田中先生の亡くなられる一九八五年七月に京都で行われたものであるが、先生の急逝によって第一回のインタヴューだけで中断されたものを再録した。編集の都合上色々割愛せざるをえない部分もあり、要領のえない部分もあるが、当時の雰囲気を伝え、最後の田中先生の肉声をお伝えしたいと思い活字にした。筑摩書房編集部〕

(その4)注
波木居斉二 元会員、岩波書店(1904〜1982)
山鹿太郎 岩波書店
橋本関雪邸 銀閣寺畔の白沙村荘
山本光雄 元委員,都立大教授(1905〜1981)
村治能就 元委員,東京教育大教授(1912〜1976)
鈴木雅也 元会員、神戸女学院大
岩倉具実 元委員、同志社大・京都外大教授(1905〜1978)
青木 巌 元委員、慶応義塾大学・上智大学教授(1900〜1973)
横部得三郎 慶応義塾大学・京都外大教授(1898〜1984)
西脇順三郎 元委員、詩人、慶応義塾大学教授(1894〜1982)
原納一富 元会員、東北大教授(1917〜1964)
富永惣一 美術史・美術評論家、国立西洋美術館館長(1902〜1980)
蛭沼寿雄 元委員、関西学院大教授(1914〜2001)
水野有庸 元会員、大谷大教授(1928〜2008)
新関良三 元顧問、学習院大教授・埼玉大学学長(1889〜1979)