座談会(3)
《インタビュー》
『西洋古典学会』発足の頃(3)
―田中美知太郎先生に聞く―
出席者
田中美知太郎(京大名誉教授)
松平千秋(京大名誉教授)
藤沢令夫(京大教授
岡 道男(京大教授)
松本仁助(阪大教授)
井上達三(元筑摩書房)
(一九八五・7・6 於京都)
松平 それでは、また昭和二十三年にもどることがあるかもし れませんが、一応二十四年のほうにまいります。二十四年、一九四九年ですが、これは一応私の日記で申し上げますと、一月の十二日に、兵藤君と一緒に田中先生をお訪ねして、古典学会誌の編集に関する相談ということですから、やはり生活社で出す方針でやっていたようです。
三月三日に京都百万遍の寺で、十時から古典学会誌の編集会議 をやっています。かなり具体化していたようですね。ただ、この ときにどなたがお集まりになったか、よくわからないんですが。
田中:二十四年はぼくのノートにあったか、そこは調べます。 二十四年は調べてなかったから。
松平:いや、そのとき見せていただいたと思います。書いてな かったと思います。これは、あるいはわれわれだけでやったのか もしれないですね。泉井、野上……よくわからないですが。
その二日後、五日に、村田(数之亮)先生を、やっぱり兵藤君と 一緒に訪問していまして、「古典機関誌の発刊に関して相談」と ありますから、その前の相談の結果、村田先生に協力をお願いす るということだったようですね。
それから三月九日に、「柳沼君が来て、古典学雑誌の件」とあ ります。ですから、このころ、非常に精力的にというとなんです が、やっているようですね。同じく三月十五日の火曜日に「野 上、兵藤両君と田中先生を訪問して、会誌編集に関して相談」。か なり具体化していたようです。同じ三月三十日にもう一ペん兵藤 君と田中先生を訪問して、会誌の打ち合わせをした。
それから面白いのは、この前田中先生にも申し上げたんです が、四月の二十日に、兵藤君が来て、やっぱり田中先生と三人で 「ヘルメス」と書いてあるんですよ。
田中:ヘルメス?
松平:「編集上の相談」と書いてあるんです。だから、「ヘルメ ス」という題にすることに、一応なっていたのかもしれないね。
田中:なってたんですかね。
松平:だけど『ヘルメス』という雑誌があるということぐらい わかっていたのに、なぜそんなことしたのかよくわかんないんだ けれども。
松本:あの時分、「ヘリコン」とかおっしゃっていましたね。
田中:そう。一度「ヘリコン」とかありましたね。
松平:五月十一日にも、それと同じようなことが書いてありま す。それから、九月の二十二日、「兵藤君が来て、とうとう生活社 が手を上げたと」。生活社、つぶれたんですかね。
田中:つぶれたんですねえ。社長の私財を投じて、戦前からや っていたわけでしょう。戦後に、なんか、あんまり手を広げすぎ たかなんかで。
岡:亡くなられたんですか、社長は。
松平:それから間もなく亡くなったんですね、確か。
田中:亡くなったんですね。それですっかりスポンサーがいな くなってつぶれちゃったんですね。あれ、ほとんど私財を投じて やってたから。
松平:したがって、岩波で出すようになりますのは、その後、 田中先生が岩波にお話になって……。
田中:二十四年ですね。ですから、この前、二十四年の日記を、 まだよく検査をしていなかったんで、それ以後でしょうね。ぼ くは、岩波に話をして、なんかわりに早く……。二十四年で、雑 誌が出たのが二十何年ですか。
岡:二十八年です。
田中:だいぶ間があります。
松平:実際には二十七年ですね。
岡:製作したのが二十七年です。
田中:村川君と雑誌の話をした覚えはあるんですがね。村川君 が雑誌を出すなんて、ちょっとむずかしいでしょう。学会報ぐら いの程度のというようなことを言ったんで、いやあ、なんてぼく は強気の発言をしていた覚えがあるんだけど。
それのもっと後でしょうね、具体化したのは。布川角左衛門が 来て、こういう表紙にして、こういう体裁でというようなことを 言って、それでいいだろうなんて言った記憶はあるんです。それ ほだいぶ、二十七年か六年ころの話でしょうね。
松平:そうですね。先生と富士見の合宿は何年でしたかしら。
田中:二十五、六年じゃないですか。
松平:あのころ、岩波がしょっちゅう著者をカンヅメしてまし たから。
田中:そう、そう。ぼくは、『ギリシャ語入門』と『哲学初歩』 と、両方書けって言われてたから。
松平:なお、私の漠然たる記憶ですけれども、岩波との話は必 ずしもスムースには行かなかったと思いますけどね。なかなか難色を示して。
田中:それはそうでしょう。
松平:それを先生が説得してくだすって、出来上がるというこ とになるんですけど。二十四年も、たしか田中先生の日記と合わせたんですけれども、だいたい私のと同じような形なんで。
田中:同じでしょうね。二十四年は全体に見なかったから、探 してみたら出てくるかもしれない。あとで誰か、松平さんの、二 十四年の日々を、何かに書いといてください。それを中心に日記 を調べてみますから。
松平:それじゃ、サーベイですから、一応二十五年までまいり ます。
田中:二十三年と二十四年、問題を残して。
松平:二十五年、これが創立の年なんで。ところが、この年 は、もう、だいたい準備が出来たとみえて、あまり私の日記に記 事がないんです。こういうことを言うのは、本当はどうかと思う んですけれども、九月二十五日に、天理へまいりまして、発会式 の金がないものですから、私の友人に、なんとか少し費用を援助 してくれと無心した覚えがあります……。
田中:大変だ。何もないんですよ。ゼロから始めたわけだから。
松平:それで一万円寄付してもらいましてね、それで例のちぎ り屋でやった懇親会の費用にあてました。
田中:あれは覚えていますね。
松平:それからいよいよ十月十六日になりまして、これは学会 の直前ですが、「学会のことで田中先生、それから泉井、野上氏ら と打ち合わせ」という記事があります。
それからこれがよくわからないんですが、その翌日の十七日 に、「高田武四郎さんを訪ねて、学会の打ち合わせ」と書いてあり ます。
田中:武四郎君、何かやりましたかね。
松平:アルベルトゥス・マグヌスの論文がありますね。あれ、 発表されたんでしたかね。
田中:それがあったんですかね。古典学会にちょっと合わない ですね。
松平:論文は確か出ていますね。……そうじゃない。あれは泉 井さんのだ。
田中:そこんとこ『古典』という雑誌があるから。
松平:だから、非常にまぎらわしいんですけどね。
田中:その編集というのも、そっちのほうの編集かもしれない ですね。ぼくの日記に出てないやつは。
松平:「学会の打ち合わせ」と書いていますがね。
田中:ああ、学会ですね。
松平:同志社の代表というようなことで……。
田中:ああ、同志社で、何年ですか、やりましたね。
松平:しかし、それは後ですからね。
田中:だいぶ後ですね。武四郎君が何度か、堀川の家に見えた ことがあるんです。何の用事でしたかね。
松平:あのころ、武四郎さん、まだ非常に活発でしたね。いろ んな意味で。後でなんか引退されたようなことですけど。
田中:ばかに早々と引退しちゃったけれども。
松平:それで、私の日記では、後、二十二日の当日ですね。「創 立大会。午後一時開会」、これは記事があるんですね。たぶん私が 書いたんですね。私の場合、日記を申し上げますと、「予想以上 に盛会」と書いてあります。それから、「田中秀央先生と新村出 先生の挨拶、祝辞」、それから「高津さんと田中先生の講演」、そ れから「野上さんが閉会の辞」、それから「四時半前に終わる」 「その後、ちぎり屋で懇親会。十六名出席。十時近く閉会」。日記 にはそう書いてありますがね。
それで私の日記は、一応二十五年まで終わりなんです。この 前、田中先生の日記を拝見しているときに、私は、五十一年以降 のが、二、三年欠けておりまして、発見出来ませんので、田中先 生のを拝見して、二十六年の第二回大会の、東大の学会、十一月 の四日ですね。これは、午前、牛後とあったようです。先生の日 記では、高田先生の発表があって、それの批評がかなりありまし て、それから樋口(勝彦・慶大)さんがラテン語の詩を朗読したと いうことが書いてあります。
田中:「うまい」と、感心して書いてある。
松平:褒めてありますね。それから、私も確か、下手な研究を ……。
田中:そうですね。私のでは黙殺してあるな(笑い)。
松平:いや、辛辣な批判があると覚悟したら、なかったですね。
田中:いやいや。
藤沢:「ギリシャ文学における庶民」というのだったですね。
松平:そう、そう。そんなんでした。
田中:ぼくは、あのとき、きみと一緒に東京に行って、茗渓会 館に泊まった覚えがある。
松平:湯井壮四郎君はやらなかった?
松本:湯井さんはやっていないですね。記憶ありません。高田 先生(京大)が一番最後に、だいぶ暗くなってからやられて。
松平:高田先生は長いからね。歴史のほうは、東京では、どな たかがやられたんでしょうかね。
田中:村川君はやりませんでしたかね。東京は誰がやったかわ からないんですか。
岡:記録がございません。
松平:落合(太郎)さんが来ておられたことは覚えていますけ ど。だけど、東大側は、えらく、サービスが悪いんで。
松本:ええ。準備されていなかったんです。ですから、われわ れが行ってからあわてて。
田中:ひどいよ。東大でやろうなんて言いながら。あのとき は、高津君が、もう主にやるんでしょう。神田盾夫さんはいなく てね。
松本:呉先生が中心に座られたんですよね。東大は。
田中:呉さんは、しかし東大にポストはなかったでしょう。
松本:教養学部で。
藤沢:なんか逆の話のようになりますけど、二十五年の第一回 のときは、田中先生の講演は『哲学の言葉としてのギリシャ語』 という題は覚えているんですけれども、高津先生の発表は、何と いう題でしたか。
松本:『ギリシャ散文の発達』。
松平:今、駆け足で、二十六年ぐらいまで。二十七年は奈良で すね。これはかなりわかっているんですね。
岡:奈良は、きょう偶然発見しまして。
松平:十一月三日で、これは田中先生の日記では、鈴木照雄君 とか、村田先生が講演なさったんですね。三笠荘で懇親会をやっ て。
田中:あのときは、なかなか盛会でしたね。きみ、覚えてない か。
藤沢:よく覚えています。なんか、ぼくが知っているかぎりで は、田中先生が一番たくさんお酒を飲まれた(笑い)。どんぶりのふたでね……。
田中:そんなばかな(笑い)。
松本:そして、田中秀央先生とやられましてね。
田中:そうですか。どんなことを?
松本:なんか、学会に□□がないとかあるとかいうことで、美 知太郎先生が文句をつけられていたのを覚えています。
田中:ちょうど卒業した年かな、二十六年か。
松本:二十六年は束京ですね。
田中:大学院か。
松本:大学院です。
松平:そうすると、二十七年は、だいたいよくわかって、二十 六年が、ちょっとあやしいんですが。東京がちょっと……。
田中:東京方にどっかに記録はないでしょうね。
松平:ないでしょうね。
田中:久保君はぜんぜん関係ないし。神田さんは、今は病気だ から。柳沼君が、もしかしたらね。
松平:ええ、柳沼君が一番希望がありますけどね。
田中:これは二回目ですか。
松本:二回目です。
松平:岩田さんとか池田さんでしたら……。
田中:ああ、覚えているかな。覚えているかもしれないね。そ れはわからない。聞いてみれば、覚えているかもしれない。
松平:今お聞きのとおりですが、大体われわれの間でわかって いるのは、その程度のことなんで、それで、二十三年のことは、 恐らくお若い方々はほとんど関係ないと思うんですけどね。
田中:ぼくはきょう、ほかの用事があってうっかり日記を見て こなかったので、二十三年と四年は、さっき言ったところは宿題 にしておいてください。
松平:あと、井上君が、呉さんとか、ああいう……。
井上:そのへんは、この間、古い手紙を見ていましたら、松平 先生から、田中先生の『論文集』についての書評を、水谷さんっ て、カトリックの神父さんに、書評を頼んでくれっていう手紙が 出てきましてね。二十四年です。
田中:二十四年。まだ本が出ないけれども……。
井上:「ヘルメス」の書評欄に。
田中:手回しだけはいいんだ。
松平:結局出なかったんですね。
田中:出なかった。
井上:だから、依頼されたぐらいですから、一応編集会議でも って、執筆者の方なんかは決まったと思うんです。
松平:そうね。じや、相当すすんでいたんですね。どうせ、い わゆる幹部級の方が書かれることになってたんでしょうね。二十 三年のこと、松本君は記憶ありませんか。
松本:二十三年は全然ありません。入学したてですから。
松平:二十四年から、そうするとこれがあれじゃないですか。 井上君、もう少し記憶ありませんか、二十四年。今もお話があっ たけれども。生活社の兵藤君なんていうのはご存じなかった?
井上:いえ、知りませんけど。田中先生のところに行くとね、 生活社でもって人を探しているから、どうですかとか、二十三 年、卒業するときに。それから同時に、中村光夫さんから、京都 に高桐書院というのがありましてね、そこでも採用してもいいと か言っているんですがね。兵藤さんに会いますとかと言って、伺 ったこともあるんですけれども。ちょっと、京都にいられないこ とがあって、東京へ帰ってきちゃったものですから。
田中:生活社は、希和辞典を出すとかいって、なんかしてたで すね。えらく大きな計画ばかり立てて。
松平:あれは全国書房じゃないですか。
田中:そうだ。全国書房でしたね。岡田君のところだ。
松平:あれは田中秀央先生の……。
田中:そうだ。秀央さんが、辞書を、ラテン語の辞書を出した りしてね。ああ、そうか。生活社じゃないか。
松平:とにかく生活社で機関誌を出すという話は、かなりすす んでいたことは事実ですね。このへんは、一度柳沼君に、改めて 聞いてみましょう。
田中:名前が出てくるから、日記の中に。
松平:そうすると、二十五年のことはどうですか。これ、松本 君は、このとき、もう事務を頼んでいたかしら。やってもらって いたかしら。
松本:事務は大学院へ入ってからですから、二十七年ですね。
松平:そうでしたか。そうすると、二十五年というのはぼくが やっていたんですかね。
松本:二十五年は、学会を開くということで、いろいろ手伝い はいたしましたけれども。
松平:後は、中村(善也)君なんかいたわけですかね。
松本:中村さんは、まだ三重におられて。
松平:どうですかね、その他。二十五年。ぼくもほとんど記憶 がないんで申しわけないんだけれども。
田中:記憶に残るような事件がなかったわけかな。
松平:委員会なるものがね、第一、規約……。
田中:そういうものはどうしたんですかね。ちぎり屋へ集まっ たときが、だいたい委員会みたいなもんじゃなかったですか。懇親会で。
松平:選挙になったのがいつからかな。
岡:「委員改選についての提案」とか、委員の選挙をどうする かというようなことが議論されていたような記録がありますが。
松平:それは、二、三回になってからでしょうからね。
岡:これはまだ、第六回の大会のときですね。早稲田大学の。
田中:はじめは、とにかく任命制みたいなもんで、勝手にパン パン選んで、委員をこしらえてたんじゃないですか。
岡:第六回の早稲田の大会において「委員改選法の提案」とい うことで、改選の管理は従来の事務局があたる。委員の任期は二年と書いてあって消して、三年となって「ただし再任もありう る」というようなことで……このときに初めてそれが決まったようなことで。
松本:それは確かに、委員会では二年だったんですが、大会にかけましたら、二年は短すぎるから三年にという案が出ました、 それで結局三年になったのを記憶しています。
田中:早稲田ですね。
松平:ええ、早稲田のときです。委員長を選挙することになっ たのが。田中先生のときは選挙だったんですね。
田中:そうです。
松平:それで呉先生、ご機嫌悪かったんですね。
田中:そうでしたかね。
松平:それまで選挙じゃなかったですね。だから、名誉職みた いな形だったんで。あるいは推薦ということでね。委員選挙とい うのは、いつごろからはじめたのかわからないですね。
岡:早稲田のときに、委員の改選について総会にかかっていま すから……ですからその翌年でもしたんでしょうか。そうする と、三十二年が欠けているんですか。
松平:しかし、これ「委員」と書いてあるね。
岡:ええ、それはもう委員です。ここに委員何名と。委員は最 初から、発足当時から。
松平:任命制ですんで。
岡:それは互選で。
田中:何人いたんですか。そのころ、委員は。
岡:そこに書いてあります。「役員として顧問十一名、委員三 十一名。その他十一名。委員長は呉氏」。
松平:ああ、「今回の役員決定は、早急を要するため、総会を開 く余裕がなく、臨時に世話人会において決定した」と。だから、 はじめに決めてあったんですね。高田先生が開会の辞ですか。閉 会の辞が野上さん。大筋はそんなところですか。なんか、それに まつわるアネクドートでも結構ですけれども、エピソードでも、 なんか覚えておられることがあったら。
藤沢:昭和二十五年のときに田中先生の研究室で、大会の前に 高津先生が見えて、田中先生と、話の順序をどっちが先にお話す るかということで、田中先生がはじめに、ぼくのほうが先にやる と言ったところが、いや、とんでもないと言って、田中先生のほ うが後になるという順番が決まったんです。
松本:確か、呉先生もやられる予定だったのが来られなかった ものだから、田中先生がゆっくりゆっくりお話しされていたのを 覚えていますね。
田中:「おあとがよろしいようで……」にいかなかった(笑い)。
(つづく)
(その3)注
村田数之亮 元名誉会員、阪大・甲南大教授(1900〜1999)
布川角左衛門 元岩波書店編集長(1901〜1996)
ちきりや 河原町三条、第一回大会懇親会場
高田武四郎 元常任委員、同志社大教授(1905〜1997)
田中秀央 元顧問(1886〜1974) 23号にobituary
新村 出 元顧問、京大教授(1876〜1967)
樋口勝彦 元委員、慶大教授(1904〜1964)
湯井壮四郎 元会員、フェリス女学院大教授(1921〜2003)
落合太郎 元顧問、第三高等学校校長、奈良女子大学学長(1886〜1969)
鈴木照雄 元会員、神戸商大・関西大・大阪市立大教授(1918〜2008)
久保正彰 七代委員長、東大教授、東北芸術工科大学学長、日本学士院院長
岩田靖夫 元常任委員、東北大教授、仙台白百合女子大教授
池田美恵 元会員、津田塾大講師(1919〜1997)
水谷九郎 元会員、カトリック司祭(1907〜2004)
中村光夫 文芸評論家(1911〜1988)
岡田正三 元委員、神戸大教授(1902〜1980)
中村善也 元常任委員、京都府立大教授(1925〜1985)