座談会(2)

《インタビュー》
『西洋古典学会』発足の頃(2)
—田中美知太郎先生に聞く—

  出席者
田中美知太郎(京大名誉教授)
松平千秋(京大名誉教授)
藤沢令夫(京大教授)
岡 道男(京大教授)
松本仁助(阪大教授)
井上達三(元筑摩書房)
(一九八五・7・6 於京都)

 松平: それで、今度、こういう集まりを催すことになりまし て、私の古い日記を探し出しましたところ、幸い一九四八年から 四九年、五〇年にかけてのがございました。それを一応ここへ書 き抜いてまいりました。田中先生も日記をつけていらっしゃいま すので、一昨日、先生のお宅へ伺って、合わせましたところが、 だいたいどちらも間違いがないということで、私のほうが詳しい ところもあるし、田中先生のほうが詳しいところもありますが、 しかしあんまり具体的な記述がありませんので、大して役に立た ないかもしれませんが、ただ、期日はある程度わかるのではない かと思います。

 だいたい昭和二十三年、一九四八年ごろから、西洋古典学会結 成の動きが出ておることは確実なんです。これは田中先生と呉 (茂一)、高津(春繁)両氏との間の、あるいは村川(堅太郎)さんも入 っておられましょうか、その四人の方ぐらいの間でお話し合いに なったところが中心になっているんじゃないかと思うんですが、 私はまだ若輩だったものですから、あんまりそういう立ち入った 話はうかがっておりません。

 私の日記によりますと、それまでの細かいといいますか、小規 模なお話し合いはいくつもあったと思いますが、ある程度まとま った話し合いとしましては、昭和二十三年の十一月七日、日曜日 ですが、「九時半から、百万遍の養源院で古典学会創立の打ち合わ せ会」という記事が載っております。

 その出席者が、呉、田中、泉井(久之助)、高田(三郎)、野上(素一)、 松平(千秋)、それから出版社生活社から二名。で「十二時半散会」 と私の日記には書いてあるんですが。この生活社二名と申します のは、どうやらこの当時は生活社が、例の西洋古典関係のものを 出版いたしておりましたので、その縁で生活社が面倒を見るとい うことになっていて、おそらく学会誌の問題も、生活社が出すよ うなことで話がすすめられていたようです。これはまた後で、田 中先生からお話がありますが。それが二十三年にあります記事で す。

 それまでに京都だけで、泉井先生と野上さんとかと、個々にお 話した記事も若干載っておりますが、内容はわかりません。

 ただ、二十三年の七月の十三日、火曜日ですが「柳沼君と、学 会設立趣意書印刷発送の件などで相談」とあります。柳沼君は、 当時生活社でアルバイトをしておりまして、だからおそらく生活 社の関係だと思うんですが、そうしまして、その一週間後の十日 に、同じく火曜日ですが、兵藤(正之助・現文芸評論家)君というの が、京都の生活社のエージェントで柳沼君のボスだった方です が、兵藤君が参りまして、「古典学会趣意書の刷り物を持参」と書 いてあるんですね。私、まったく記憶ないんですが、したがって この後、間もなく、趣意書を出したはずなんですが、それについ ては記録がありません。

 以上が、だいたい私の日記によります。二十三年の出来事なん ですが、その間、東京の呉さんから、私宛の来信なんかもありま して、もちろん田中さんのほうにはもっと頻繁にあったと思いま すが、そういう小さいことはありますけれども、主なところは大 体そういったところです。

 この前、田中先生と、先生の日記と合わせまして、だいたい中 身は合いますのですが、つまり二十三年ごろから、ぼつぼつ古典 学会結成と、それからもうひとつ古典学会誌ですね、学会誌を発 刊するというご相談もあったようですので、次に田中先生から、 そのことを少し思い出していただいて……

 田中: どっちのほうですか。

 松平: 並行して行われたようですね。

 田中: 手紙の往復は、来たとか出したとかいうのは記録がある んですが、内容は何も記述がないので、ぜんぜん記憶がない。う っかり、調べてこなかったんですけれども、この間は、二十三年 の九月以降のところのノートは見ていただいたと思うんですが。 それ以前、つまり昭和二十三年の七月ですか、名簿があるのは?

 岡: 九月です。「二十三年九月現在」となっています。

 田中: 九月ですね。その前に、名簿はあるぐらいだから、何か ね……。

 松平: だから、趣意書を出しましてね、おそらくそれに賛成の 人の名簿ですね。趣意書が、たぶん七月か八月には出ているんだ ろうと思いますね。

 田中: ですから、二十三年のノートは別のノートがあるんで、 それをこの間は出さなかったか、出しても調べなかったので、そ こはいくらかあれがあるかと思うんですが。そこんところ、まだ 詳らかにしていないので、材料がないんですが。

 ぼくは、二十二年の九月に京大に来たわけですから、夏休みが 明けてから来て、二十三年といったらその翌年で、それで、東京 へ行く用事というのは何があったか、それがちょっとわからな い。何か東京で村川君に会ったりした記憶がぼんやりあるだけで すけどね。そこは、どうも、きょう調べてこないんで申しわけあ りませんが、一応問題にして、つまり十一月七日以前、あるいは 九月の名簿が出来る以前の状況というものは、問題として残して おいていただいて、もしあれば後で補っていきたいと思います が。

 なんか、そのころ、ぼくは東大の池上鎌三君がどうしたか、自 分の後任かなんかにぼくを推して学術振興会とかなんとか、文部 省でやってたんですかね、なんかそれの委員かなんかさせられた んです。そんな用事で出ていったかもしれないんで。そうする と、二十三年の夏になるまでの、春ぐらいに、きっと何か接触し たんじゃないかと思うんですね。そこは調べてみないとちょっと わかりませんですね。

 松平: 二十三年というと、井上(達三)君は……

 井上: 三月に卒業しました。

 松平: で、もう東京へ行ってしまわれたんですかね。

 田中: ぼくが京大に来るとき、井上君はまだ京大の学生でした かね。

 井上: そうです。

 田中: ぼくの家へ来て、なんだか京都へ来るのを手伝っていた だいたような気がするけれども。そこらへんのところどうです か、でも学生さんだから、あんまり込み入ったことはタッチして いないかもしれないが。そのころの記憶はないですか、学会の。 呉君とか高津君とかに会ったとか……

 井上: 京都にいるときじゃなくて、やっぱり私、東京へ行って からだったと思いますので、二十三年の夏前ですね。田中先生と 学会をつくってという話が出ているということをうかがったの は。

 松平: だから、趣意書を送ったころですね。

 井上: 趣意書が来た覚えはぜんぜんないんですけどね。

 田中: ぼくは、東大の……何の会だろう、学術振興会の会か な、神田(盾夫)さんがその頃いて、で、高津君を紹介された覚え があるんです。高津君は、ちょうどイギリスから帰ってきたばっ かりのころで。そのときだと、高津君はもう教授か、助教授にな っているわけですね。

 井上: いえ、まだあのときは、講師じゃないですか。

 田中: 講師ですか。なんか若い人でしてね。神田君に……

 井上: 神田先生はまだ助教授でしたね。

 田中: そうか。高津君にそのとき初めて会ったんですから。そ のころから……。呉さんのほうは、戦前から接触があるわけで す。その生活社の古典叢書かなんかを刊行するんで、みんな集ま った写真がありますけれどもね。

(つづく)

(その2)注
養源院 百万遍、知恩寺の脇寺
泉井久之助 元常任委員、京大・京都産業大教授(1905〜1983)
高田三郎 元常任委員、京大教授(1902〜1994)
野上素一 元常任委員、京大教授(1910〜2001)
兵藤正之助 元生活社、文芸評論家(1919~1995)
池上鎌三 東大教授(1900〜1956)
神田盾夫 元委員、東大・ICU教授(1897〜1986)