Q&Aコーナー

質問

 プラトンの『メノン』を読んでいて疑問に思ったことです。光文社文庫の渡辺邦夫訳によると、p51のところで、ソクラテスが「では、きみははたして、美しい立派なものを欲する者は、よいものを欲していると言うのだろうか?」と質問し、メノンは「ええ、もちろんです」と答えます。ここで、「美しい立派なもの」を「よいもの」へ置き換えたことで、メノンは議論で追い詰められていくのですが、なぜ簡単に「もちろんです」と言ってしまうのでしょうか。美しく立派な帝都を占領したいという野望によって戦争を起こすということや、美しい女性を自分のものにしたいということからトロイ戦争が起きるように、美しい立派なものを手に入れたいという思いとよいことの差はメノンにとって簡単にわかることではないでしょうか。

(質問者:宮寺良平様)

回答

 一 「美しく立派な帝都を占領したいという野望によって戦争を起こすということ」や、「美しい女性を自分のものにしたいということ」は、厳密に言うと『メノン』七七Bのいう「美しい立派なものを欲する」ことではないと思います。二つの例に「美しい」という言葉が入っているので、重なるないし一致するとお考えでしょうが、微妙に違います。まず、訳文で「美しい立派な」という二重表現にあたるギリシア語は、kalosという形容詞(の名詞化)一語です。「美しい」とだけ訳してもよいのですが、この直訳ですと原語ギリシア語や、他の欧米系言語(英語のfineやドイツ語のschönやフランス語のbeau)に含まれる「立派さ」や「みごとさ」のニュアンスが落ちてしまうので、わたしはここの訳語をあえて二重の表現にしました。「美しい女性」はたぶん見た目のきれいな美人のことで、「美しい立派な帝都」も表面的なあらわれや姿が美しいところなのだと思います。「帝都」の形容に「立派な」を付け加えておられますが、「美しい立派なものを欲する」ときの「立派な」の付加は欧米語特有の、「表面的でなく、目に見えるものとはいえない立派さ」をとらえようとしたものなので、付加の効果が、ややずれていると思います。そして、欧米系の美・立派さの場合であれば、よさに、きわめて近いと思われるのです。

 二 もう少しこの問題の本質に近づくこともできます。ご質問のなかでは、「美しい女性を自分のものにしたい」という例は、トロイア戦争の発端の事件のことと説明されています。これはある名門家の人物の夫人である絶世の美女ヘレネを誘惑したトロイアの王子の話ですが、かれはこの行為によって徳があると認められたわけではありません。むしろ、ソクラテスたちの考える本質的・人格的な立派さも、弁論家ゴルギアスや若き政治家メノンが目指す政治的な「徳」もまるでない、短慮から結果的に自分の国を破滅させたダメ人間だとされています。「美しい立派な帝都を占領したいという野望によって戦争を起こすこと」も、この言い方だけでは、美や立派さがそこにあるといえるような、核心的なポイントを、表現できていません。これは、愚かな暴君でも、特殊な街並みの美に取りつかれた変態的な王様でもできるようなことなので、ずばりの徳や、政治的な徳をピタリ言い当てる表現ではないのです。メノンはここの後のところでは答え方がまずいとソクラテスに責められて追い詰められますが、ここではまだソクラテスと常識を共有しているので、それでソクラテスのリード通り、正しく答えることができている、と思われます。

 三 以上のことが示していることは、ソクラテスの対話には、メノンと共有している古代ギリシア的な文明の高さも、根底にある、ということでしょう。ゴルギアスやメノンはソクラテスとプラトンから見れば間違った考え方に基づいて徳を問題にしたのですが、政治の言説として西洋の人々がその後長い間代々受け継いで改善していった、洗練された技術の初めのところに立っていた、とは言えると思います。そこに、人々の厳しい目があるなかで、優れた弁論により自分の「徳」をなんらか示しながら政治に携わるという、非西洋では現代でもなかなか芽生えないある基本姿勢を、はっきりと認めることができます。

 四 ただし、その共通の文明の高さの上で、ソクラテス対メノンの意見の相違は、激烈です。両者とも、美しいことを感覚的に美しいことや表面的に美しいとあらわれることではない立派さとみなして、「よいことだ」ともみなした上で、通常のよいことより一段上の非常によい、立派な美しいこととみなしているのですが、ソクラテスは勇気や節度や正義や知恵そのものがそこにくる価値だと思っているのに対し、メノンのほうは、普通でない巨大な富や国家規模の名誉や地位や権力そのものがそこにくると信じているからです。

(回答:渡辺邦夫)