Q&Aコーナー
質問
曖昧な記憶なのですが、「死ぬことの一番の悲しみは、葬儀で愛する人が自分のために悲しんでいる姿を見る事が出来ないことだ」というような一節を読んだことがあります。ヴェルギリウスだったかなと思うのですが、色々調べても分かりません。出典をお教えいただければと思います。よろしくお願いします。
(質問者:きのこ 様)
回答
ご質問、有難うございました。
これはウェルギリウスでもなく、提示された章句そのものでもありませんが、少し似たものとして思い出すものがあります。生の長さについてソロン(前7/6世紀、アテナイの政治家、詩人)がミムネルモス(前7世紀、生の無常、老いの悲哀などを歌った詩人)への反論の形で歌ったとされるエレゲイア詩です。
「私には、泣いてもらえぬような死は来ぬように、死んだなら、友には悲しみと嘆きを残したい」(ソロン、断片21 West)というもので、プルタルコス『英雄伝』中「ソロンとプブリコラの比較」1.5に引かれて残る2行です。これについてはキケロが批判して、賢者ソロンともあろう人が、自分の死が友人たちの悲しみと嘆きで飾られないのは嫌だというのはおかしい。それよりエンニウスのエピグラム、「誰もわたしを涙で飾ってくれるな、葬いも/泣きながらはやめてくれ」の方が良い、と言っています。(『老年について』73。『トゥスクルム荘対談集』1.117)
序でながら、ここから更に中国のエピソードを連想します。老子が死んだ時、友人の秦失(しんいつ)が弔問に訪れたところ、弟子たちが老子の棺を囲んで激しく泣くのを見て幻滅した。たまたまこの世に生を享けるのも、たまたまこの世を去るのも時の巡り合わせに従ったまで。それに火にくべた薪は燃え尽きても、薪というものがある限り火がなくなることはないように、個々の人が死んでも生命そのものは永遠に存在するゆえ、個人の死は嘆き悲しむにあたらない。そのことを弟子に教えていない老子の哲学は本物でない、というのです。(『荘子』養生主篇第三)。
さて、私が思いついたのはこれですが、きのこ様がご記憶の文脈はやはりもっと別のものであったでしょうか。ウェルギリウスはじめラテンの詩文に詳しい方に改めて相談しますので、再度このコーナーにお便りをお願いいたします。
(回答:T.N.)