Q&Aコーナー
質問
プラトンのアカデメイアの運営には、施設・場所の維持費や食費など含む何らかの費用が必要だったのではないかと想像しています。もしこの想像が正しければ、その財源はどこにあったのでしょうか。ポリスが負担していたのでしょうか、それとも何らかの寄付/寄進(労働力や現物という形を含む)があったのでしょうか。
お教えいただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。
(質問者:赤津小鰯 様)
回答
ご質問メール拝見しました。
本件については明確な証拠資料はなく、おおむねのところヘレニズム期以降の文献における断片的言及と状況証拠によらざるを得ないのが実情ですが、アカデメイアの運営はプラトンの個人財産と様々な方面からの資金提供によって維持されたものと考えられます。
学園は、プラトンがアカデメイア聖域の体育場に隣接した土地を購入して小さな施設を整備し、体育場なども使いながら、研究教育を行ったことに始まり、およそ900年間存続しました。むろんその間の歴史には栄枯盛衰があり、内部的対立や変動も免れず、その所在地さえも西暦紀元前後にはアカデメイアの聖域を離れ、市域内に移されています。以下の記述はおおむね初期アカデメイアを対象にしたものとお考えください。
当初の基金については、(ご存じとは思いますが)40歳を前にしてプラトンが訪れたシュラクゥサイで独裁僭主ディオニュシオス一世の不興を買い、帰路アイギナ島で奴隷に売られようとしたときに、たまたま知人のアンニケリスが居合わせ彼が買い取ることで事なきを得たが、彼はその費用をプラトンから受け取ろうとせず、そこでそれを上記の土地購入や施設整備に充てて学園を開設した、と伝えられています。その後の運営にもプラトンの私財が可能なかぎり投じられたでしょうし、各方面からの援助、たとえば深い因縁に結ばれたシュラクゥサイの宮廷(ディオニュシオス二世や彼の甥のディオン)からかなりの資金援助を受けたことが窺われます。またアカデメイアからはギリシア各地で有力支配者となった人たちが多数輩出していますから、そうした人たちからの支援も期待できたと思われます。学園はプラトンの個人財産として遺言によりスペウシッポス以下代々の学頭に継承されていきますが、その維持には常に外部からの援助が必要だったことは言うまでもありません。
なお、アカデメイアで学ぶための受講料は不要でしたが、学員の生活費などは基本的に各自の負担でした。プラトン没後に学園を継いだスペウシッポスが受講料を取ったことがあるとか、さらにそのあとのことですが、定例の食事会(これは研究教育の重要な一環でした)が華美になり学員の費用負担が大きくなりすぎたときにも不満が出て改善されたといった逸話も伝わっています。
アテナイの公的支援は一切ありませんでした。そもそもアテナイでは公教育という制度や理念は全く存在せず、初等教育も各家庭に任され、男子は、ちょうど小中学校に相当する過程として、読み書き・体育・音楽などの科目を、それぞれ自分で選んだ私塾のようなところに通って習得していました(女子は家庭内教育が一般的でした)。また初等教育終了後の高等教育を最初に担ったのがソフィストたちでした。彼らが前5世紀後半から前4世紀初頭に活動したのにつづいて登場したのが、イソクラテスの弁論術学校やプラトンのアカデメイアであり、さらにアリストテレスのリュケイオン、ストア派の学園などの哲学学校がともに高等教育や学術研究を担っていくことになります。
これらの哲学学校、特にアカデメイアは「ティアソス」という、いわば宗教結社に準ずるようなものとして公認されていたということは従来一般的に支持されてきた見解ですが、もしそうだったとしても、それは学園の存続や公共施設の使用の保障とはなったでしょうが、それ以上に公的支援の根拠となり得るようなものではなかったでしょう。
以上、ごく手短に概括的なことを記すにとどめましたが、プラトンのアカデメイアについては廣川洋一『プラトンの学園 アカデメイア』(1980年岩波書店刊および1999年講談社学術文庫刊)というすぐれた著書があり、財政問題についても一章を割いて論じられていますので、より詳しくは本書を参照されることをお奨めします。
(回答:K.U.)