Q&Aコーナー
質問
先日、ジャン・シャーウッドスミス著『海からの花嫁』という本を手に取る機会があったのですが、冒頭部分を読んでいると、ペーレウスがテティスを捕える話が紹介され、テティスが逃げるために、火、水、豹、海蛇、最後にイカに変身したと述べられていました(4頁)。
それまでテティスが豹、海蛇に変身したという話は見たことがなく、イカについてはロバート・グレーヴス(81章)くらいしか見たことがありませんでした。そこで可能な限り文献を洗い直してみると、確かにちくま文庫の『ギリシア悲劇III』のアンドロマケの注に「ペレウスが烏賊の姿になったテティスと契った云々」とあったり(343項)、ピエール・グリマルの辞典のペーレウスの項に finally a cuttle fish とあるのを見つけましたが(352項)、豹と海蛇は見当たらず、原典もよく分かりませんでした。
『海からの花嫁』の記述の出典はどこなのでしょうか。よろしくお願いします。
(質問者:zerase様)
回答
ご質問をお寄せくださり有難うございます。
『海からの花嫁』は未読で、以下のお答は著者シャーウッドスミスの記述の出典になるかどうかは分かりませんが、テティスの変身についての典拠を記して回答に代えたいと思います。
伝アポロドロス『ギリシア神話』3.13.5にはペレウスを逃れようとしてテティスが火、水、獣に変じたとあり、そこへのフレイザー注(J. G. Frazer, Apollodorus. The Library II. London 1963(The Loeb Classical Library))を見ますと8つの典拠が挙げられています。(1)ピンダロス『ネメア祝勝歌集』4.62(101)以下、(2)そこへのスコリア(古註)、(3) ピンダロス『ネメア祝勝歌集』3.35(60)への古註、(4)パウサニアス『ギリシア案内記』5.18.5、(5)クイントス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚』3.618-624、(6) リュコプロン『アレクサンドラ』175,178へのツェツェス註釈、(7)アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』1.582への古註、(8)オウィディウス『変身物語』11.241以下。この中、可能なものを紹介しますと:
(1)「そして全てを負かす炎をも、不敵な策をめぐらす獅子の
鋭い爪をも、その恐ろしい牙の
切っ先をも制した彼(ペレウス)は、
玉座高きネレイデスの一人(テティス)をめとることになったのだ。」
(内田次信訳、ピンダロス『祝勝歌集/断片選』)
(2)はこの箇所についての古註ですが、炎と獅子以外の姿については特に付け加えるところがありません。
(3)テティスは火や様々な獣に変じた。彼女の変身についてはソポクレスも『トロイロス』断片618 Radt、『アキレウスを愛する男たち』断片150 Radtで語っている。
その断片150では、ライオン、蛇(drakōn)、火、水に変身しています。
(4)オリュンピアのヘラ神殿に奉納されたキュプセロス(コリントスの僭主、前7世紀後半)の櫃。数多くの神話上の場面が杉材に彫られ、あるいは象牙や黄金の彫像が埋め込まれてあるのを、パウサニアスが記述する。ペレウスがテティスの腰にしがみつき、テティスの手に握られた蛇がペレウスを襲おうとしている図がある、と。
(5)「あるときは吹きつのる風、あるときは水になり
またあるときは鳥や燃える炎に身を変えたわたしのために。」
(北見紀子訳、クイントス・スミュルナイオス『ホメロス後日譚』)
(6) ツェツェスのリュコプロン註釈は架蔵せぬのですが、幸いエウリピデス、断片1093(R. Kannicht, Tragicorum Graecorum Fragmenta. Vol. 5.2. Euripides. Göttingen 2004)がそれを引用していますので、そこから訳します。
「ペレウスに追われるテティスはプロテウスのように様々な姿に我が身を変えたが、烏賊(sēpiā)の姿になったところをペレウスが取り押さえて交わった。テッサリアのマグネシアの地名セーピアスはここから出る。」
(8)「ここで女神が何度もいろいろに姿を変える
常用の戦術を使わなかったら、果敢な行動が実を結んでいたろう。
だが、女神が鳥になったときは、鳥のまま捕まえて放さず、
重い大木になったときは、木にしがみついていたペーレウスだが、
三つ目に縞柄の雌虎の姿となったとき、これには
さすがのアイアコスの子供も怯え上がって体から両腕を放した。」
(高橋宏幸訳、オウィディウス『変身物語』)
LIMC(Lexicon Iconographicum Mythologiae Classicae)のThetis項を見ますと、テティスとペレウスが格闘する図像が幾つもありますが、テティスの体から出ているものが女神の化身を表し、動物の場合はライオン、虎、豹などと解釈されます。ライオンと蛇の絵(Thetis 13)を添付します(イタリア、ヴルチ出土、前510/500年頃の皿)。T. Gantz, Early Greek Myth. The Johns Hopkins University Press 1993. p.229はこんな壺絵を紹介しています。
- クレタ島プライソス出土の皿、前7世紀中頃。ペレウスが魚にしがみついており、その左側は破損しているが、女性(テティス?)の足が描かれている(Iraklion)。
- Perugiaの鼎(前3世紀) 。ライオン、蛇がテティスの肩から出ている(Munich SL66, 67, 68)。
(回答:安村典子・中務哲郎 2022/2/22)