Q&Aコーナー

質問

 自宅にあった『少年少女文学全集』の第一巻に、ギリシア神話が収録されており、幼稚園の時に父が毎晩読み聞かせをしてくれました。その影響で、ギリシア・ローマ世界に興味を持ち、大学時代に古代ローマ史を専攻することになりました。各国に神話は有りますが、ギリシア神話は特に、「どうして〇〇は〇〇なのか?」という素朴な疑問を、古代ギリシア人が真剣に考えた、想像と創造の賜物と密かに思っています。

 神話や伝承は、代々口伝えで受け継がれてきたと思うのですが、ギリシア神話については、どのように人々に浸透していったのでしょうか?また、それが後々、ローマの神話と融合していくと思うのですが、その過程(?)は、一体どのようなものだったのでしょうか?

(質問者:Germanicus様)

回答1

 おっしゃる通りギリシア神話は、まず口承で伝えられました。特に詩人たちが、昔から受け継がれた物語を祭典などの際に歌ったのです。詩人たちが歌った口承詩は、文字に書き下されるようにもなり、口承と異なる次元でも伝わっていきます。それで詩人以外に、様々な神話について言及・記録し伝える者たちも現れます。また、祭典で上演された演劇でも神話が題材とされ、こちらも神話を伝える重要なメディアでしたし、ほかにも神殿など公共の場の彫刻や絵画、日常生活で目にしたであろう陶器の装飾画などを通じて、人々は神話と共に生きていたといえるでしょう。またこれもおっしゃる通り、人々はあらゆる事象の背景に(目には見えないが)神的存在があると考えており、たとえば神々が人間感情にまで影響を与えていると想像しました。そして神々が世界を、昔も今も動かしていると考え、崇めたのです。そして日常的に行われていた諸々の宗教的儀式を通しても、神話の物語やイメージは浸透したことでしょう。

 神話を含むギリシア文化を継承していったのがローマです。ローマにも固有の神話がありましたが、神々はギリシアのそれと重ね合わされるなど、ギリシア神話の強い影響を受けていきました。そのため、たとえばギリシア神話の主神「ゼウス」はローマのラテン語では「ユピテル」と呼ばれるなど、ほぼ同じイメージの神について複数の呼び名が並存している場合があります。ただしもちろん、ローマ固有の要素もありましたし、ローマの詩人によって新たな解釈が生まれたり、エピソードが付け加えられたりして、物語がより豊かになったともいえます。前一世紀後半以降、ローマが帝国になった時代には、従来の神々への畏怖の心が変質し、神々の恋愛物語が好まれるようにもなります。こうした面ではローマの詩人オウィディウスが扱った(そしてときに脚色したであろう)多くの神話題材が有名で、後世の芸術に多大な影響を与えており、「ギリシア神話」といったとき、特に芸術関係でイメージされているのはローマ要素の強い神話の場合もあるのです。このようなギリシアとローマとの「融合」から、「ギリシア・ローマ神話」と併記することもあるわけです。

参考文献

  • 庄子大亮『世界を読み解くためのギリシア・ローマ神話入門』河出書房新社、2016年。
  • 高橋宏幸『ギリシア神話を学ぶ人のために』世界思想社、2006年。
  • 松本仁助・岡道男編『ギリシア文学を学ぶ人のために』世界思想社、1991年。
  • Ken Dowden and Niall Livingstone (eds.), A Companion to Greek Mythology, Wiley-Blackwell, 2011

(回答者:庄子大亮 関西大学等非常勤講師)

回答2

 ローマ古来の重要な神々がギリシアの神々と同一視されたために、ローマ人にとってギリシア神話は自分たちの神話でもあった。そのような大きな意味ではギリシア神話とローマ神話が融合したと言えるでしょう。ただし、ローマ神話を狭い意味で考えるなら、ふつうローマ神話はローマの建国とその発展の歴史に関するものであり、基本的にギリシア神話と融合したとは言えないと思います。

 ただし、融合と言えるような二つの事例をすぐに思いつきます。それはアイネイアスのことと、ヘラクレスとカクスの話で、どちらもローマ神話では最初期の話に属するものです。調べてみると、両者とも実はかなり複雑な問題であって文献資料だけではまったく不十分であることが分かりました。しかし、具体例があったほうがおもしろいと思いましたので、細かい点は割愛することにして、主に文献資料を使ってこの二つの例を紹介したいと思います。

 「女神アプロディテと人間のアンキセスとの息子であるアイネイアス(ラテン語ではアエネアス)は、トロイア戦争においてトロイア方の英雄であったが、ギリシア軍によってトロイアが滅ぼされると、彼は殺戮をまぬがれてトロイアを脱出する。トロイアの位置する小アジアから出航し、最終的にイタリアのラティウムに到る。そしてその地の王の娘を妻にし、ラウィニウム市を建設する。のちにアイネイアスの息子アスカニオスの子孫であるロムルスはローマ市の建設者となる。」これが一般的に知られている神話ではないでしょうか。しかし、はじめからそのような話であったわけではないようです。このことについては小川正廣『「アエネエーイス」神話が語るヨーロッパ世界の原点』(岩波書店)の104-107頁を読んでいただくのがよいのですが、補足を加えて私からも説明したいと思います。

 アイネイアスの西方への旅について述べている古い典拠はあまり残っていません。小川前掲書にも紹介されている詩人ステシコロス(前7-6世紀)に関する説が正しいなら、かなり古くからある伝承ということになりますが、この説には疑問な点があるようです(Gantz, Early Greek Myth, pp. 714-715参照。詳細は省きます)。現存する典拠はハリカルナッソスのディオニュシオス(前1世紀)の『ローマ古代誌』の記述が主たる情報源です(1.45以下。ほかにプルタルコス『英雄伝』「ロムルス」も参照)。それによれば、アイネイアスがイタリアに行ったと考えていない歴史家たちがかなりいたようです。ディオニュシオスは確実に行ったと考えていて、その前提で記述を進めています。彼の言っていることが正しいなら、アイネイアスがイタリアに到ったとする典拠として最も古いものはヘッラニコス(前5世紀のレスボス島出身の歴史家)ということになりますが(1.72.2)、これにも議論があるようです(Gantz, Early Greek Myth, pp. 716-717, p.846を参照しました。具体的な議論は未見です)。ディオニュシオスの間接的な記述(1.67.4)からではありますが、ほぼ確かなこととして言えるのは、シチリアのタウロメニオン出身の歴史家ティマイオス(前4-3世紀)が著書『歴史』の中でイタリアにおけるアイネイアスについて叙述していたということです。ただしディオニュシオスによると、たとえば前2世紀の作家ヘゲシアナクスは、アイネイアスはトラキアで死んだと言っているそうですので(1.49.1)、西方には行ったとしても、イタリアに到ったという説は定説ではなかったと思われます。

 イタリアに到ったという説がギリシア人から生まれたのかローマ人から生まれたのかは分かりませんし、いつごろ生まれたのかも分かりませんが、ローマ人はこの説を強く支持しました。百科事典の記述(Brill’s New PaulyのAeneasの項)に頼っていますが、前4世紀にはラウィニウムにアイネイアス崇拝があった可能性があるようですし、ナエウィウス(前3世紀)やエンニウス(前3-2世紀)といった初期のローマの文学者たちの作品がイタリア到来説を前提としていたことが、後代の資料から分かります。のちの歴史家リウィウス(前1世紀)は、『ローマ建国以来の歴史』をアイネイアスのイタリア到来から書き起こしています。そしてご存じのように、ウェルギリウス(前70-19)の叙事詩『アエネイス』はこの神話を作品全体のテーマとしており、アイネイアスとローマとの関係について決定的な役割を果たしました。最初に示したような、ローマの建国者ロムルスはイタリアに到来したアイネイアスの子孫であるという伝承が、ローマ人の間ではもちろん、現在の我々にとっても一般的になっているのは、『アエネイス』によるものと言ってよいでしょう。

 このようにアイネイアスの物語というギリシアの神話がローマ神話に完全に接続されたわけです。なお、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、アイネイアスとローマの建設者との関係について諸説入り乱れていることを紹介しています(1.72)。建国者はロムスでそれはアイネイアスの息子だとするものなどがあり、伝承が一様ではなかったことが分かって興味深いです。

 次はヘラクレスとカクスの神話です。神話の中でのことですが、年代的にはアイネイアスのイタリア到来よりも前の話になります。ギリシア神話の英雄ヘラクレスは十二の功業で有名ですが、その一つに「ゲリュオン(ゲリュオネス、ゲリュオネウスとも言う)の牛」の話があります。西の彼方に住む怪物ゲリュオンの牛を奪ってギリシアに連れてくるという難題を、ヘラクレスがやり遂げる話です。カクス(ギリシア語ではカコス)の話はその帰路のエピソードの一つです。牛をつれてギリシアにもどるために彼がイタリア半島を通過していたとき、(のちの)ローマのパラティヌスの丘またはアウェンティヌスの丘の近くに住んでいたカクスという男(怪物または悪漢)が、彼の牛を盗もうとします。ヘラクレスはそれに気づいて牛を取りもどし、カクスを殺します。

 この話はウェルギリウスの『アエネイス』(8.190以下)に語られているので比較的有名だと思いますが、古い典拠はウェルギリウスを含めて前1世紀のものばかりです。ギリシア語の作品ではハリカルナッソスのディオニュシオスの『ローマ古代誌』1.39、ラテン語の作品ではリウィウス『ローマ建国以来の歴史』1.7.3以下、プロペルティウス『詩集』4.9、オウィディウス『祭暦』1.543以下が挙げられます。

 同じく前1世紀ですが、シチリアの歴史家ディオドロスはまったく異なる話を伝えています(『歴史』4.21.1-2)。カクスはカキウスになっており、パラティヌスの丘に住んでいた名士であって、ヘラクレスを歓待したとしています。もちろん殺されません。また、より古い典拠として、3世紀のソリヌス(『世界の驚異について』1.7)が伝える前2世紀のローマの歴史家グナエウス・ゲッリウスの「断片」7 (Peter)があります。ここではカクスはエトルリア軍の司令官になっており、戦闘でヘラクレスに殺されます。興味深いのは彼がとくに悪辣な人物になっていないことです。ほかにもより古いカクス像を示す資料がありますが、長くなるので割愛します(Oxford Classical DictionaryBrill’s New PaulyのCacusの項を参照)。どうやらカクスの悪辣な人物像は、元はなかったか複数あった人物像の一つだったようで、前1世紀になってとくにローマの作家の間でそれが固定したものになったようです。

 アポロドロス(後1または2世紀)の『ギリシア神話』にはこのエピソードの記述がありません。同書2.5.10にヘラクレスとゲリュオンの話と、牛をつれてギリシアに戻る途中のエピソードが語られています。ヘラクレスは北イタリアのリグリアで牛を奪おうとした二人の兄弟を殺します。そのあとエトルリアを通ったことが語られ、次のエピソードは南イタリアのレギオンでのことになっています。アポロドロスの『ギリシア神話』は、ローマではすでにカクスの話ができあがっている前1世紀よりも後の作品ですし、この作品はギリシア神話の話を包括的に扱っていることが特徴です。にもかかわらずそこにカクスの話がないということは、ローマと関係の薄いギリシア人にはこの話はほとんど知られていなかったということでしょう。だとすれば、ヘラクレスとカクスの話はローマ人が作り出したものである可能性が高いのではないでしょうか。

 なぜローマ人はカクスの話を作り出したのかという点については様々な推測が可能でしょうが、確実に言えるのは、ローマにおけるヘラクレス崇拝の起源を説明するのに、カクスの話は都合がよかったということです。ローマのフォルム・ボアリウム(牛市場、牛広場)という場所にあった至大祭壇(Ara Maxima)は古くからヘラクレス崇拝の中心でした。前1世紀のローマの作家たちはみな、カクスを退治したことを記念してこの至大祭壇が作られたことを語っています(それに加えて、ギリシアのアルカディアから移住してこの地を支配していた神話上の人物エウアンドロスが何らかの形でそれに関わっていることを伝えています)。ヘラクレスがリグリアに到ったという伝承はアイスキュロスの散逸した『解放されたプロメテウス』の断片(199)にもすでに見られますので、彼がイタリアを通ったという伝承はギリシアの伝承で比較的古くからあったと思われます。ローマ人は、彼がローマの地でも何らかのことを行ったという伝承をそこに加えることで、自分たちのヘラクレス崇拝の起源としたかったのでしょう。そのために選ばれたのがカクスであったということです。

 以上紹介した二つの例は「融合」とまでは言えないかもしれませんが、ローマ人がギリシア神話を自分たちの神話にうまく接合した例ではあるでしょう。その結果として現代の我々も、これらが常識であるかのように思いこんでいるのです。

(回答者:五之治昌比呂 大阪大学日本語日本文化教育センター)

2020/12/05