Q&Aコーナー
質問
『文藝百科全書』隆文館 1909年 820ページ(国会図書館デジタルコレクションでは、440コマ)に、ポセイドンについて、以下の文言がありました。
「又地震の音は地下を通過する彼の二輪馬車の軋る音だとなされた。」(国会図書館デジタルコレクション)
またGoogleブックスによれば、Eric H. Cline, The Trojan War, 2013 にも、
「ポセイドンの戦車を牽く際の馬蹄の響きは、海波の轟きだけでなく、(古代ギリシア人によれば)地震にともなう音をも生み出した」 (The pounding of the horses' hooves, while pulling Poseidon in his chariot, not only created the crashing sound of the ocean's waves, according to the ancient Greeks, but also the sound that accompanies an earthquake.)(Google Books)とあるようです(ページ番号はわかりません)。
古典文献には実際に、ポセイドンの戦車(または馬)と地震とを結びつける文言があるのでしょうか? もしあるとすれば、どのような文献のどの箇所にあるか、御教示いただければ幸いです。
お忙しいところ、大変お手数ではありますが、よろしくお願いいたします。
(質問者:山猫 様)
回答1
ご質問、有難うございました。
初めに打ち明けますと、ポセイドンの戦車(馬)と地震とを目に見える形で結びつけた章句は思い当たらず、その上で周縁のことを記します。
古代の地震については間もなく興味深い邦訳書が刊行される予定ですが(ゲルハルト・H・ヴァルトヘル(内田次信・上月翔太・竹下哲文訳),『西洋古代の地震』,京都大学学術出版会(近刊))、初期の自然哲学者は、円盤状の大地を水が支え、水が動くと大地が揺れるとか(『ソクラテス以前哲学者断片集』タレス、A 15)、極度の高温や低温により大地が変容すると地震が起こる(同書、アナクシメネス、A 7)、などと考えたようです。それに対して、地下(海中)を走るポセイドンの戦車の響き(軋み)が波の音や地震に伴う音を生む、というのはたいそう詩的ですが、ありそうでいて思いつきません。これは、ポセイドン=地震の神という常識を基にして、近代人が創り出した詩的イメージではないかとも思えます。ただ『文藝百科全書』とE.H.Cline書がよく似た記述をしていますので、共通の典拠がありそうですが、今のところ見出せません。(序でながら、Clineが紹介する、トロイアの木馬=地震 説には賛成できません)。
ポセイドン(Poseidōn他いろんな形あり)はかつてはpotamos(河)のpot-などと関連づけて水の神と解されましたが、今はposis Dās(大地の主、大地の夫、海路を知る者、水の王、等解はさまざま。Dā-を大地母神DēmētērのDā-とするかDanaos, DanubeなどのDā-とするか)と解くのが有力です。
ポセイドンと地震との結びつきは、古くホメロス『イリアス』『オデュッセイア』に頻出するエピセット(枕詞)や異称により証されます。Enosikhthōn(大地を揺する)、 Ennosigaios(地震の神)、 Gaiēokhos(大地を支える)、gaiēs kīnētēr(大地を動かす者。ホメロス風「ポセイドン讃歌」)。
「すぐさま神は、険しい岩山から足早くに降って行ったが、ポセイダオンの歩むにつれて、その不死なる足の下で、高い山も森もともに揺れ動いた」(『イリアス』13.17以下、松平千秋訳)。これなど、ご質問の主旨にやや近い詩句です。その後ポセイドンはサモトラケからアイガイまで4歩で行き、海の底にある黄金の屋敷で二頭立ての戦車を仕立て、波を割って飛ぶように走って行きます。
しかし、「(ネプトゥーヌスの)濃紺の戦車は水面を越えて軽快に飛んで行く。/その下で波は静まる。車輪の轟音が過ぎ行くとき、波立つ/海面も平らかとなり、嵐の雲は広大な天空より去る」(『アエネーイス』5.819以下、高橋宏幸訳)では、海神の動きが却って海の平安をもたらしています。
地震活動を思わせるのは、アイアスのしがみつく海中の岩をポセイドンが三叉の矛で打ち砕く場面(『オデュッセイア』4.505~)、「ギガントマキア(巨人族との闘い)」でポセイドンが島を引きちぎりポリュボテスの上に投げつける場面(アポロドロス『ギリシア神話』1.6.1~)、テッサリアは四方を山に囲まれた湖であったが、ポセイドンが東に地震の亀裂による渓谷を造り、ペネイオス河が海へ流れ込むようになった(ヘロドトス『歴史』7.129)、タイナロンのポセイドン神殿に逃げ込んだ農奴を引っ張り出して殺害したのが穢れとなり、このため地震が起きる(前464年、トゥキュディデス『歴史』1.128)、等々。
Poseidon Hippios(馬のポセイドン)の祭祀は各地にあり、ポセイドンが馬を生む、馬となって女神に迫る、馬の生贄を受ける、等の神話・儀礼は多々あります。
ご質問の主旨に即した箇所は見出せずにいますが、読者の方でご存じあればお知らせ頂きたいと思います。
(回答:HP運営委員会)
回答2
問題の件は結論的に言うと,
- 現実の(人間の)戦車や馬車が響きを立てて行く、という描写はホメロス以来見受けられる。例えば『イリアス』10.535などでのhippōn…ktypos は、馬のひづめあるいは車輪が地面を打って出す音ガタガタ、ドンドンを表わす(rattling of chariots or sound of horses’ feet,Liddel/Scott,s.v.ktypos).
- これは地面との衝撃から来る音であり、車軸や基底に生じる「きしみ」の音ではない。質問者の引用邦文「軋る音」と英文のpoundingとは異なるはずです。前者は日本語として車軸などの摩擦音のはずであるが、後者はポンポン、ボンボン、ドンドンというboundの音なので。したがって英文のほうの説明は、現実に馬車の出す音には適応します。
- ただしそれをポセイドンの神話的馬車に適用する西洋古典箇所はまず思い浮かばない。
- 英文著者の考えにはgaiaokhosというポセイドンの形容句が基礎に置かれているか? これは一部の近代の学者によって「地下で車を駆って行く神」と解されることがある。Chantraine(Dictionnaire etymologique de la langue grecque, p. 219)は後半部をラテン語vehoと可能性として関連付けながらon pourra comprendre ”menant son char sous terre”の意味の可能性も認めている(Farnell,The Cults of the Gr. States, IV, 8はこの説に否定的)。その解釈の上に立ち、しかも現実の車のpoundingの音には西洋古典に言及があるのだから、ポセイドンの車も地中を行くときに(そう解釈して)、そういう音を出す、震動させる、それが地震の震動や音につながる、と連想しているのか。ちなみにルクレティウス(6.548以下)で、ローマなどの道を荷車が行く、その震動でそばの家屋が震動する、というのを地震の喩えに引く有名な箇所がありますが、ルクレティウスはもちろんポセイドン即地震の神という神話には関心がなく、あくまで自然学的な説明です。
- しかし「地中を行くポセイドン」という説は古代では行われなかったので、今挙げた理解法はそういう近代的な解釈の上に立って、さらに連想を発展させたものという結論になるのでは?
(回答:内田次信)
2020/10/07