Q&Aコーナー
質問
ヘロドトスの伝える古代イランの記述に興味を持つ者です。長年疑問に思っていたことについて質問したく,投稿させていただきました。
ヘロドトス『歴史』第1巻110に,メディア人の牛飼いの妻の名でSpakoo(oo=オーメガ)なる名が出てきます。同箇所は,これはギリシア語ではKunooであると言い,それについて「雌犬のことを(teen kuna)メディア語ではスパカと(spaka)呼ぶからだ」としています(メディア語語幹*spaka-「犬」を巧みに対格として使う統語環境に持ってきています)。
そこで質問です。ギリシア語のkunooという女性名詞はとても珍しいようですが,そもそもギリシア語には-ooに終わる女性名詞(nom., acc.不変化?)が普通にあるのでしょうか? それとも,これはまさしくSpakooを説明するための人工語でしょうか? しかしながら,メディア語を含め古イラン語で-ooに終わる女性名詞──そもそもoの音自体──は想定しがたく,恐らく最も近いのは普通の女性語幹*-aa(aの長母音)であろうかと想像します。とすれば,逆に,ギリシア語既存のkunooを使うために,メディア語の原語の方をspakooに変えたと考えるのでしょうか? この辺の借用関係や音の関係がよく分かりません。ご教示いただければ幸いです。どうぞ宜しくお願いいたします。
(質問者:文田飛駿 様)
回答
ご質問有難うございました。
例えばインドの文献にギリシア語の固有名詞が殆ど現れないのに対して、ギリシア人はインド人、ペルシア人、エジプト人などの名前を巧みに(あるいは勝手に)ギリシア語化してしまうのを、面白い現象だと感じてきました。Derketō(シュリアの豊穣女神)、Toudō(ミュシアの王女。ダマスコスのニコラオス、断片49)などの現地での音(および表記)は知りませんが、ギリシア人には東方的な語感がするのかもしれません。しかし、ギリシア語にもこの形は珍しくありません。普通名詞ではēchō(木霊)、lechō(産婦)、peithō(説得。最後の音節に強アクセント。属格はpeithous、対格は主格と同じ)など僅かしか思いつきませんが、固有名詞では沢山あります。思いつくままに記せば:
Tūrō(エニペウス河神に恋し水を見つめていて、ポセイドンに犯された)、Sidērō(テューローを虐めた継母)、Hērō(へーローとレアンドロスの恋物語のヒロイン)、Pērō(Nēleusの娘)、Komaithō(敵将に恋して父親の命の宿る金髪を切り取った娘)、Akkō(鏡に映る姿が自分だと分からなかった阿呆な女)、Sapphō(抒情詩人)、Sardō(サルディニア島)、Mormō(嬰児を食い殺す女怪)、Gellō(子供を攫う女怪)、Īnō(カドモスの娘)、Lētō(アポロン、アルテミスの母)、Enūō(戦いの女神)、Gorgō(ゴルゴンの別形)、Calupsō(オデュッセウスを8年引き留めた海のニュンフ)、Melanthō(オデュッセウスの家の侍女、悪役)、Ālēktō(復讐の女神エリニュエスの一人)、Klōthō(運命の三女神モイライの一人)、Poluksō(ヘラクレスの子孫トレポレモスの妻)、Chariklō(予言者テイレシアスの母)、Mantō(テイレシアスの娘)。エペソスのクセノポン『エペソス物語』にはKunō、Mantō 、Themistōという女性名が使われています。
メディア語については、古代ペルシア語における借用語や、ギリシア語資料などに見える人名など、語彙レベルの資料しかないので、その転尾がどのようであったかはまったく分かりません。理論的には、メディア語には古代ペルシア語やアヴェスタ語などに見られる転尾が全くなかった可能性まであります。故に、Spakō および spaka がメディア語形をそのまま引いたものか、ギリシア語風に活用させたものか、判断できません。因みに、spaka- は、span- 「犬」(古代インド語 śvan-)に形容詞接尾辞-ka-のついた形で、文字どおりには「犬のような」が原義で、アヴェスタに在証されますが、近代ペルシア語の sag 「犬」は、西北方言形の *sa-ka- 「犬のような」に由来するのでしょう。
(回答:中務哲郎、奥西峻介)