Q&Aコーナー

質問

 恐れ入ります。
 古代ギリシアの出版業について質問させてください。

 加来彰俊先生の『ギリシア哲学者列伝』のゼノン(7.1.2-3)のくだりを読んでいて、古代ギリシアの出版についていろいろ疑問が湧いてきました。

 商船が難破して、ペイライエウスに流れついたゼノンがたまたまアテナイの本屋で『ソクラテスの思い出』を立ち読みして、感心し、
「ここに書かれているような人たちにはどこに行ったら会えるんですかね?」
 と本屋の主に訊ねたところ、ちょうどクラテスが通りかかったので、
「あの人についていったらいいですよ」
 と本屋の主が答えて、ゼノンがクラテスの弟子になったくだりです。

 たくさんありますので、わかるかぎりで教えていただければ、と思います。

1. 本屋の形態は、現代日本のキヨスクみたいな感じの店で、店の前に(キヨスクで雑誌が平積みにされているように)パピュルス紙の巻物が並べられていて、立ち寄った客が立ち読みしても良い状態になっていたのでしょうか?
(そうでないと、本屋の主が、立ち読み客と話をしながら、通りかかったクラテスを確認できないので)

2. 当時のギリシアは、立ち読みが許される文化だったのでしょうか?

3. そもそも原文の「βιβλιοπώλης」というのは、現代日本人がいうところの「本の販売をする店」という意味で本屋であっているのでしょうか(貸本業とかではなく)?

4. 本(巻物?)の中身は手書きの写本だったのでしょうか?

5. 本の印刷(といいますか本の製造)はトゥキュディデスに出て来るクレオンみたいな実業家が字の書ける奴隷を雇って(人力印刷で)製造していたのでしょうか?

6. 本を売る商売が成り立つくらい、出版数があったのでしょうか。
   それとも、一冊(一巻?)の値段をかなり高く設定していたのでしょうか。

(質問者:葦驢亭様)

回答

 古代の書物の著作や作成については相応のことが分かり、研究もある程度纏まったものがありますが、「本屋」のこととなると、どうもはっきりしたことはほとんど何もないというべきかもしれません。古典作品の中にもごく断片的な言及しか見当たりません。特にご質問のストアのゼノンの青年時代(前4世紀末)までとなると、プラトン『ソクラテスの弁明』(26E)に、公共広場の一郭(オルケーストラー)の本屋(?)にアナクサゴラスの流布本が1ドラクメで売られていたことが書かれているのと、アリストパネス『鳥』に、多くのアテナイ人たちが早朝から「(店に並べられた)書物に襲いかかり」と言われている(1288行)のが目立つくらいで、とても一般的な状況を推測できるほどの手がかりにはなりそうにありません。しかし、少なくともアリストテレスの学園には収集したかなりの蔵書があったようですし、また著作のパピュロス断片でこの時代に遡るものもいくつか伝わっていますから、すでに少なからぬ書物が作成されていたことは確かでしょう。ただし、それらがどの程度に「営業的」性格のものだったのかはわかりません(むしろ多くは個人制作、個人注文かもしれない)。むろん、ヘレニズム期になれば、急速に膨大な数の書物が作成され、一般に流布するようになったことは想像に難くないところでしょう。

 ・・・・ ということで、以下のお答えは漠たるものにしかなりませんが、

 1-3について:βιβλιοπώληςが本の「専門店」だったかどうかわかりませんが、この時代にはそれなりにパピュロス巻子本を纏めて売っているところがあったのでしょう。一時的な貸し出しをしていたかどうかはまったく分かりません。なお、ゼノンは「立ち読み」していたというよりも、むしろ本屋の主人が(おそらく宣伝用に)読み上げているのを聞いていた(立ち聞き)のでしょう。音読を傍で聞いているのが、当時の「読書」の一般的な方法でした。

 4-6について:書物はむろんパピュロスに手書きの写本でした。想像ですが、もし営業的に書物を作成するのであれば、誰かが原本を読み上げ、それを何人かが聞きながら筆写したのでしょう。しかしおそらく当時の「出版業」は、クレオンのような大実業家が手を出すほどの規模だったとは思われません。これもまったくの想像ですが、「本屋」の主人がプロデュースしたのではないでしょうか。書物の値段もよく分かりませんが、上に記したように、たとえばアナクサゴラスの著作(比較的短くて、おそらく200行程度か?)が1ドラクマくらいとされていますが、これは高価なパピュロスの値段などを勘案すると、筆写料はかなり安価だったことになるように思われます。

(回答:K.U.)