Q&Aコーナー
質問
こんにちは。初めて質問させていただきます。
帝政ローマ時代における文学の翻訳状況について質問させてください。
帝政ローマ時代(5世紀以前)、アリストテレスやプラトン、ギリシア悲劇などのギリシア文学を、ラテン語圏に生まれた人々は、ギシリア語でしか味わうことができなかったのでしょうか?文章或いは朗読会でのラテン語訳というものはあったのでしょうか?(ボエティウスのアリストテレス翻訳や、 リウィウス・アンドロニクスのラテン語訳は例外的なのでしょうか?)
逆に、タキトゥスやキケロー、カエサルなど、ラテン語の著作をギリシア語圏に生まれた人々は、ラテン語でしか味わうことができなかったのでしょうか?それとも、文章或いは朗読会などでのギリシア語訳というものはあったのでしょうか?
文学を味わうような階層の人びとは、両方の言語が読めるのが普通だったのか、或いは、それぞれの言語圏の文学を味わう階層の人びとにとっては、お互いの文学圏の著作は、殆ど存在しないに等しい世界で暮らしていたのか?という点を知りたいのです。
もしかして、両方の文学を親しく読める現代人は、この点では帝政ローマ時代の人びとより幸運だとということになるのでしょうか。
以上、ややこしい質問となってしまい申し訳ありませんが、ご回答いただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。
(質問者:Solaris1様)
回答
ギリシア語・ラテン語相互翻訳について系統的にお答えするだけの知識がありませんが、断片的なことがらを並べることでお許し下さい。
「征服されたギリシアが野蛮な勝利者を征服した」(ホラティウス『書簡』2.1.156)という詩句が二国間の文化的な関係を象徴するように、文学面でもラテンのギリシアへの片思いであったようです。
リウィウス・アンドロニクスやエンニウスがギリシアの悲劇や喜劇を翻訳したのは、今日の我々が異国の文学を味わうために行う翻訳とは異なり、ラテン文学を創出するための作業でした。
カトゥッルスがカッリマコスの「ベレニケの髪」を翻訳したのも修業の一環でしょう。ホラティウスもアルカイオス(前7、6世紀)らの韻律を学ぶのみならず、詩行も訳しています。「ウェルギリウスがホメロス、ヘシオドス、ロドスのアポロニオス、パルテニオス、カッリマコス、テオクリトスその他の詩人を真似る時、部分的に省いたり翻訳したりしたのは巧みでよく考えた処置だった」(ゲッリウス『アッティカの夜』9.9.3)と言われるように、ラテン文学を創るためにギリシア詩を翻訳(vertere)・模倣(imitari)する時代は続きます。ギリシア哲学を近代西洋に媒介したキケロも、多くの学術用語のラテン語訳を発明し(明治日本の西周のよう)、アラトス『パイノメナ(星辰譜)』などを訳しましたが、これも水の高きから低きに赴く一証です。
ローマのエリート層はギリシア語も学習しており、クインティリアヌスは、ウェルギリウスだけでなくホメロス、ホラティウスのみならずギリシアの抒情詩、ギリシア喜劇のメナンドロスなどを学ぶのが理想だと述べています(『弁論家の教育』1.8.5以下)。小プリニウスも、ギリシア語をラテン語に、またラテン語をギリシア語に翻訳することを勧めています(『書簡集』7.9)。それゆえ、ギリシアの詩や悲劇は原文で読まれたと考えられますが、「イソップ寓話集」のような民衆文学はパエドルス(50年頃死)がラテン語に翻訳・翻案(韻文化)して、ローマの庶民にも楽しまれました。
哲学分野ではギリシア文献のラテン語訳がありました。
(1)アプレイウスはアリストテレス「宇宙について(De Mundo)」の翻訳のみならず、プラトン「パイドン」のラテン語訳もおこなっていました。断片になってしまっていますが、後代のプリスキアヌスによって保存されたものから、この翻訳が存在していたことがわかります(Les Belles LetrresのOpuscles Philosophiques et Fragmentsに入っています)。
(2)アプレイウス「命題論」。翻訳ではなく、アリストテレスとストア派論理学のラテン語による解説書。
(3)アウグスティヌスが読んでいた「プラトン派の書物」は、マリウス・ウィクトリヌスがラテン語訳したものです。これは「告白」第八巻第二章に明記されています(プラトン派のどの書物かが不明であり、訳者の名前は記されていました〕。マリウスがギリシア語からラテン語に「プラトン派の書物」を訳したことは、同じく「告白」第七巻第九章にもこの人の名前とともに記されています。
一方、古典期、ヘレニズム期のギリシア人はギリシア語だけ用いることに安んじていたようです。両国語を使った例外は人質としてローマに住んだポリュビオス(前2世紀)、詩人のピロデモス(前1世紀)。ずっと下がりますが、両国語で詩を書いて名高いのはクラウディウス・クラウディアヌス(後4世紀)。ギリシア人がラテン語を学ぶようになるのは、後3世紀以後、ローマ帝国東部のギリシア人が帝国の役人として就職するために言葉を学ぶ必要から、とされます。
通説はこのようですが、ギリシア人は案外ラテン語を勉強していたという説もあります。そしてラテン文学のギリシア語訳を拾って行くと、
(1)ポリュビウス(1世紀、クラウディウス帝の学事係)はホメロスをラテン語散文に訳し、ウェルギリウス『アエネイス』をギリシア語に訳した(セネカ『ポリュビウスに寄せる慰めの書』)。現存せず。
(2)ゼノビオス(2世紀、ギリシアのソフィスト)によるサルスティウス『ユグルタ』『カティリーナ』のギリシア語訳。現存せず。
(3)ウェルギリウス『牧歌』第4歌のギリシア語訳。コンスタンティヌス帝の講話の中に残っています。
(4)エウトロピウス『ローマ建国以来の略史』(4世紀)をパイアニオスなる人物がギリシア語訳した。これはヒエロニュムスやイシドルスによって利用されています。
なお、エジプト出土のパピルスにウェルギリウスとキケロのギリシア語訳が残っていますが、学習ノートであったかもしれません。
この問題については、
Victor Reichmann, "Roemische Literatur in Griechischen Uebersetzung",
Philologus Supplementband, 34, Heft 3 (1943);
Carl R. Trahman, The Latin Language and Literature in the Greek World,
University of Cincinnati Dissertation (1942 unpublished)
という文献があることを知りましたが、見ることはできませんでした。
(回答:HP運営委員会、金澤修、田中創、マルティン・チエシュコ)