Q&Aコーナー

質問

哲学史の本などを読んでいますと、プラトンの作品では頁番号らしい数字が記されていて、議論には便利になっているようです。しかし、「ソクラテスの弁明」と「ティマイオス」に同じ数字が出て来るのはなぜでしょうか。これで不便はないのでしょうか。(京都・MM 様)

回答

伝承された西洋古典著作は、15世紀末以来次々に活字印刷本が刊行されましたが、それらのうちですぐれた刊本は広く流布するにつれて、おのずからスタンダードなものとして認定されるようになりました。すなわち「標準版」と言われるもので、当然ながら、校訂などに欠陥が少なくて、基本的に各著者の作品が網羅的に編纂されたものが選ばれています。プラトンについては、1578年にジュネーブで刊行された「ステファヌス版」(Henricus Stephanus / Henri Etienne の手になるもの)がそれで、彼の作品に言及する場合は、この版本の頁付けと各頁欄外に10行区切りで付されたA−Eまでのアルファベット記号で箇所指示することが一般的な約束として確立されています。またほぼ19世紀後半以降に刊行されたプラトンのテクストや翻訳には、大抵それが対応箇所に付されています。ただし、ステファヌス版『プラトン全集』は3冊本のかたちで出されました。そのために同じ頁付けが三度繰り返されています。したがって、仰有るように、たとえば「ソクラテスの弁明」(第1分冊)と「ティマイオス」(第3分冊)(そして第2分冊の「ピレボス」)では同じ頁付けが現れますが、特に不便というほどのこともなさそうです。しいて言えば、内容的に関連性の高い「ソピステス」(第1分冊216-268頁)と「ポリティコス(政治家)」(第2分冊257-311頁)が近似した頁付けになっているために、(そして今日最も一般的なオックスフォード版では、著作配列順がステファヌス版と違っていて、その二つが頁つづきに印刷されているせいもあって)思わず勘違いしそうになることなきにしもあらずでしょうか。

(回答 K.U.)