日本西洋古典学会第55回大会(2003年)研究発表要旨

市民社会論の西洋古典学的基礎一考察―プラトン後期哲学・アリストテレス政治学からの接近(アプローチ)―

榊原 健太郎

 プラトン『ノモイ』(647A,671CD, 672D,698B,699C, 713E ,729BC, 943E et al.)に用例が見られる<aidos(慎み)>という概念を考察の素材に得て、この<aidos>概念が後期プラトン著作群の一角を占める重要概念であることとともに、アリストテレス政治学(=人間にとっての善の実現と保持を目指す学)における中核概念としての「中間/中間性 (meson /mesotes)」の思想を準備するものであったことについて、「市民社会論の西洋古典学的基礎」という問題関心の下に、一考を与える。というのも、現代市民社会論、社会・政治哲学領域における「正義」論の隆盛の蔭に隠れ、不当に見過ごされているこの「慎み」の政治知としての、また、愛智の成立要件としての意義について、西洋古典の知見から基礎づけつつ、また注意を喚起する役割は決してちいさなものではないと思われるからである。

 論証すべき点は、集約すれば、以下の三点である。〔1〕:『ノモイ』における<aidos>概念とは端的にどのような意味内容であるか、〔2〕:〔1〕で指示された<aidos>概念が「後期プラトン著作群の一角を占める」とは、後期以前(初期・中期)著作群のテキスト・解釈のどのような論点上の対照において明示されるのか、〔3〕:〔1〕,〔2〕の論点とアリストテレス政治学の「中間性/中庸」論点との具体的連関を指示するテキストをどこに求めることが可能であるか、以上である。

 論証過程を瞥見すれば、〔1〕:まず『ノモイ』が全体として何を論じた対話篇であるかという点について確認したうえで、『ノモイ』全体の中でも、この<aidos>概念を詳細に分析・定義した第1巻647AB を中心とする箇所の論理的骨子を精密に解読・解釈する。その具体として、正しい教育を享受する完全な市民に抱かれるべき想念のうちの 「恐れ」 という局面の立ち現れを分析する文脈 (644C4-650B) にあって、そもそも心身合一体〔心身全一体〕として「一」なる存在である私たち一人一人が、自らの行為が原因となって引き起こされた結果(帰結)として、悪いひと (kakoi) であるとの風評を蒙ることを恐れる想念を、最終的に<aidos(慎み)>と定義し、これを「最大の尊敬をもって尊」び、またこれと反対の大胆さを「慎みのなさ」と呼び公私を問わず万人にとっての最大の悪(megiston kakon)と見なされると定義している。〔2〕:この「最大の尊敬をもって尊ぶ」と表現された<aidos>の重視は、プラトンが『ポリテイア』における<dike(正義)>観の思想的結晶としての‘哲人統治者思想’の反転像として、‘法律(理性の分身)統治思想’の要請・成立を理由付けたテキスト上の一つの根拠として指摘できる。「神的な恐れ(761CD)」として同定された<aidos>に基礎づけられる市民教育は、「ただしい生き方(ho orthos bios)」において歓迎されるべき「中間 (to meson)」(792D1)を導き、この中間はまた、「神のもの (theou)」(792D3)であると強調されている。〔3〕:アリストテレスにおいては、『ノモイ』上掲箇所をモチーフにした「恐れ」の分析を『ニコマコス倫理学』(第2巻6/7章, 第3巻 6章et al.)において再考することで自らの「中庸/中間性」概念の基礎を与え、やはりこれが市民(支配者/被支配者)にもまた共同体にも「中間性」を得た生を与えるとし、「中間」の政体が選ばれるべきであるとしている(『政治学』第4巻11章 et al.)。発表では上記の論点を精確に辿り、翻って市民教養の基礎を与えるものとしての現在的可能性を問い直す。


                古典期アテナイの法的行為における祈りについて

山内 暁子

 アテナイにおける法体系の発展については、紀元前四世紀の再検討という文脈の中で、つまりM. Ostwaldが唱えるような民衆から法への主権の移行、つまり民主政の盛期から法制度の成熟期への転換をみる、という捉え方が一般的である。しかし、庶子の市民権をめぐる問題が、その定義を含めて長く決着を見ないことからもうかがえるように、法律の文言だけでは法の運用の実態は明らかにされない。例えばA.Scafuroは現実の法廷における事例に目を向け、アテナイで「偽証罪」が重視されていたのは、証人の存在によって法律を補完するシステムが維持されていたためである、と指摘する。実際、法廷弁論中において市民身分に関連するものを取り上げてみると、そこには宗教儀礼(Scafuroの立場からは、communal eventsと総称される)を媒介とした、親族を中心とする社会的紐帯の中で構築される権利という形が現れてくる。

 こういった宗教的な儀礼を信仰という観点から解釈する場合、「敬虔」を神々とのコミュニケーションの在り方、それも互いに恩恵を与え合う(あるいはそれを期待する)、という互酬的な関係の中にみる立場がある。このような研究者のひとりであるS. Pulleynによって、「カリス」概念の捉え方を中心とした、祈りについての包括的な分析が試みられている。Pulleynは祈りを形態的に分類すると共に、ギリシア人が神々をどのように捉えていたか、また紀元前五世紀末に出現した、神の摂理という新たな考えにも光りを当てている。

 しかし、Pulleynの考察は広くギリシア世界を対象とした共時的分析であり、法廷における祈り(あるいはその一形態としての誓いや呪詛)は規範としてのカリスの働き、つまり神と人との互恵関係という文脈における解釈に留まっている。本報告ではこのような祈りを改めて取り上げ、主に古典期アテナイの法廷弁論(Isaiosほか)に依拠して、ポリス社会における法的行為が祈りによっていかに効果的に補強されていたかを考察する。一方で、法制史の側から重視される「偽証罪」については、それが祈りや誓いを伴って重要性を増していたことに着目し、法廷における行為が、共同体成員によって共有されるべき「敬虔」の一端をなすことを明らかにする。総じて、本報告は、民主政期のアテナイ人の法廷での行動が、いかなるシステム―法体系と宗教的慣習―に基づくものであったのか、祈りという行為を通じて再構成を試みることとなろう。


プラトン『リュシス』篇の問いと例示―「何であるか」と「どのようにするか」との間で―

波多野 知子

 『ラケス』『カルミデス』『エウテュフロン』など、プラトン「初期対話篇」の枠の下に一括されている作品には、必ずしも共通した思想や読み方があるわけではない。それぞれ個々の主題を持ち、それに応じた接近があるだけである。確かにそれらの対話篇の形式には共通した特徴が見られる。ソクラテスは終始問う人であり、対話相手に具現化されている徳目の定義の追究の果てに探求は行き詰まりに終わると同時に、対話相手の不知が露呈される。また問答に先立って当の徳目が何であるか、定義に関わる了解が要請され同意されていることもその形式と不可分に結びついている。

 「友愛について」という副題を持つ『リュシス』もまた、「友とは何か」という問いを核にして対話は展開し、探求は行き詰まりに終わる点ではソクラテス対話篇の典型と見なされよう。しかし、それは上記対話篇とは決定的に異なる形式によって構成されている点に注目しなければならない。すなわち、ソクラテスはここで問う人ではなく、「知者」の立場で対話を主導している。それはこの作品が「友とは何か」という問題を核に持ちながらもこうした直接の問いはなく(D. Sedley)、外枠は「どうすれば愛する者を獲得できるのか」「どうしたら人と人は友になるのか」(212A)という方法に関する知識を問題にすることと関わっている。「(友)愛」(philia)という主題と、二人の子供達という対話相手の選択は、そうした構成と密接に絡まっている。

 『リュシス』では登場人物同士の間における様々に異なるphilia が呈示される。ソクラテスもまた対話篇冒頭でソフィストのミッコスと「仲間」であると紹介される。こうした様々に異なる友人関係を貫くphiliaとは何であるか。既にここにphilia を成立させる条件を問う種が埋め込まれている。「どうしたら愛する少年に気に入られるのか」(206C)の実例をソクラテスが示してみせる外枠の中に、メネクセノスとの対話、リュシスとの対話、更に二人の子供を巻き込んだ対話の三つの対話が組み込まれる。最初の対話ではphilia という主題が登場し、次の対話では実際にリュシスはソクラテスに「親しみを込めた」(philikos)態度を表す。最後の対話でソクラテスは子供に「どうしたら人と人は友になるのか」を尋ねながらも、その問いは実のところ「友とは誰のことであるか」という問いを経て「友とは何か」という問いに変容している。「友とは何か」という問いを巡って吟味対話する行為自体が、実は「友とはどのようにしてなるのか」という友を獲得する仕方の実例を示しているのであり、それはまた単なる友ではなく「善き」友を得る実際のあり方なのである。


『詩学』における二重様相の問題

河谷 淳

 アリストテレス『詩学』の論述のうちには悲劇の筋立ての様相に関して異なる系列の主張が含まれ、それらはパラドックスを構成するように見える。すなわち、アリストテレスは、一方で、悲劇が完結した行為のミーメーシスであるという規定(6章)を承けて、悲劇が「ありそうな仕方でまたは必然的な仕方で」可能なことがらから構成されると述べているのだが(9章)、他方で、悲劇が憐れみと恐れをもたらすという規定(6章)を承けて、ありそうにもない偶然的出来事を悲劇の筋立ての内に条件付きで許容してもいるのである(9章)。あるいは、悲劇の筋立てに関しては「可能だが説得力を持たないことがらよりも不可能だがありそうなことがらの方を選択しなければならない」(24章1460a26-27)と主張する場面さえある。

 こうした些か趣旨が異なる主張どうしの関係をどう見積もるべきかについては研究者たちの間で様々に議論がなされてきた。ここでまず確認しておきたい論点は「不可能だがありそうなことがら」または「ありそうもないことが起こる、ということもありそうなことである」(18章1456a24-25)という悲劇の性格付けにおいて様相がそれぞれ二重に語られている点である。悲劇が持つこのような虚構世界としての現実可能性のことを「二重様相」と呼ぶことにするならば、問題は「ありそうなこと」をめぐるそのような二重性の内実だということになる。

 悲劇の筋立ては、ありそうなまたは必然的な仕方で可能なことがらから構成される一方で、それが憐れみと恐れまたは驚きを惹き起こすためには二重様相としての意外性を持たねばならない。そうした二重性は、悲劇における行為・出来事の様相理解に何らかのレベル分けがあることを示唆する。つまりそれは、登場人物の性格・知のあり方だけからすればありそうにもないことがらが、何らかの因果的・倫理的文脈のもとではありそうなものとして観客に対して説得力を持つということである。悲劇の二重様相は、観客(自己)とそれにどこか似通った登場人物(他者)との間の、単なる同一化ではないような往復運動をめぐるものであり、憐れみと恐れといった感情を惹き起こすのもそのような二重性なのである。

 本発表の目的は、悲劇の様相をめぐるパラドックスの解消というよりは、それを『詩学』理解のための積極的な橋頭堡として援用することで悲劇の筋立てが持つ様相の性格とそれがもたらす感情の様相との相似関係を、『弁論術』の感情論なども参照しながらアリストテレス哲学内部から論じるところにある。本発表はアリストテレス哲学を「様相の哲学」として眺望する試みの一環である。(なお、本発表は、拙稿「『詩学』における様相概念の位相」(駒澤大学『文学部研究紀要』第61号143-61, 2003) の続編・応用編にあたる。)


ヘレニズム期シチリアにおける移民共同体の文化的変容―エンテッラとナコネの事例から―

渡辺 耕

 シチリアはその歴史上数々の民族が入り混じり、その結果、多様な人々によって多彩な文化が織り成されてきた。それは古代ギリシア世界に属していた時代においても例外ではない。実際、先住民としてシカノス、シケロス、エリュモスの3民族が存在し、その後フェニキア人、ギリシア人による植民を受けたうえに、前4世紀には、近隣のイタリア半島などからも多数の人々が流れ込む状況が生まれていた。史料上の制約から、文字史料によってこうした多種多様の民族が混在し関わり合っている当時の状況を窺い知ることは非常に困難である。しかし、幸いなことに、1980年以来刊行されてきたエンテッラ青銅板文書群(SEGXXX, 1117-1123; XXXV, 999)は、シチリア北西部の一共同体エンテッラの状況におけるそのような多民族の関わり合いの一端を垣間見ることを可能にしている。エンテッラの場合、当初は、近隣諸共同体と同様にエリュモス人が居住する地域であったと考えられているが、その後ギリシア人及びフェニキア人による島内への植民が進むにつれて、彼らの文化の影響を強く受けるようになった。さらに、前404年カンパニア人傭兵らによって占領、居住されるに至って、エンテッラはカンパニア人共同体としてのアイデンティティを保持することとなった。このように、エンテッラはシチリア島の極めて複雑な状況を如実に反映しているといってもよい事例の一つなのであるが、エンテッラ青銅板文書群からは、カンパニア人都市となったエンテッラの人々がその後シチリアで居住を続けていくにあたって様々な変容を遂げていたことが確認できる。

 これまで研究者たちは、文書群中に、根強く残るカンパニア人要素が確認できるとしたり、進行するギリシア化があるとしたり、すでにローマ化が始まっていたとしたりと、複数の解釈を提示して、共同体の性質について検討してきたが、いまだ決定的な結論には至っていない。本発表では諸説を整理しながら、文書群中に窺われるエンテッラ及び隣接するカンパニア人共同体ナコネの実態から、両共同体の制度、文化に注目することによって、その住民たちが島内で生存していくにあたって、従来からの固有の制度や文化を粘り強く保持していったのか、あるいは周囲の影響を受けながら変容していったのか、また、もし変容したのならば、それはどのようにして起こったのかについて検討を加えていく。その際、議論の対象であるエンテッラ決議に現れる2つのエポニュモス官職の制度や言語的な諸要素、ナコネの調停制度等に触れながら考察を進めていく。こうした変容のあり方を考察することは、エンテッラやナコネのような共同体が周囲の諸共同体とどのように関わりあっていたのかについて理解する上で欠かせないことであろうし、さらに、それはこうした移民を多数受け入れていたシチリアの歴史を再構成する一助となるであろう。


エピクロスにおけるアトムの逸れと行為の自発性

和田 利博

   アトムの「逸れ」(par。gklisiw , clinamen) という説がエピクロス本人によって導入されたものである点にほぼ疑いの余地はないが、あいにく、彼の現存する著作内にそれへの言及は見出されない。その説に関するわれわれの知識の主要な典拠であるルクレティウスの『事物の本性について』によれば、それが要請されるのは次の二つの理由からである:(a) もしアトムが逸れることがなければ、アトム同士が衝突することもなく、したがって、いかなる合成体も形成されない。しかるに、合成体は存在している。ゆえに、アトムは逸れることがある (2. 216-250);(b) もしアトムが逸れることがなければ、「自由意志」(libera voluntas) は存在しない。しかるに、「自由意志」は存在している。ゆえに、アトムは逸れることがある (2. 251-93)。これらの議論はいずれも、不明瞭な事象の存在を確証するため、明瞭な経験的事実に訴えるという形式を採っているが、(a) の「宇宙論的」証明はともかく、(b) の「心理学的」証明において、逸れと「自由意志」との間の関係は必ずしも明らかでない。

 エピクロスの心理学において逸れが演ずる役割を巡っては、古来、囂しい論争が繰り広げられてきたが、その主題について近年もっとも影響力があったのは、C. ジュッサーニおよび C. ベイリーによる伝統的解釈と、それへの反論として D. J. ファーリーが提起したものであろう。前者によれば、逸れはあらゆる自発的行為に伴われており、刺激と反応との間の因果連鎖を途絶させるものだという。他方、後者によれば、逸れは個々の自発的行為において直接的な役割を演ずるものでなく、行為者の魂におけるアトムの生得的な構成を改変することにより、行為の始点が彼の誕生以前にまで遡らぬようにするものであって、このためには、個人の魂においてただ一個のアトムがただ一度逸れるだけでも十分だという。これらに対し D. N. セドレイは、もっぱらエピクロス自身の『自然について』からの断片に依拠しつつ、はなはだ興味深い解釈を提案した。彼によれば、逸れが自発性の原因なのではなく、むしろ自発性そのものが、魂のアトムの「創発的な」二次性質として、物理法則によっても余地が残されている選択可能性の間で働く非物理的な原因なのであり、逸れとはまさしく、この自発性をして魂の物理過程の制御を可能ならしめる原子レヴェルでの不確定性のことだという。

 以上の概観からも窺われるように、議論はきわめて錯綜しており、いまだ一般的な合意に達していない。本発表では、これまでに提出された諸見解を批判的に検討した上で、いま一度、関連する諸テクストへと立ち返り、それらの読解を通じて、考察の焦点となる、決定論を回避するために偶発的なアトムの逸れを導入することは、本来の目的である行為の自発性とそれに伴う道徳的責任を保証しうるかという問題に、可能なかぎり整合的かつ肯定的な回答を与えることを目指す。


デーモドコスの三つの歌―『イーリアス』と『オデュッセイア』の関係をめぐって―

川島 重成

 『オデュッセイア』は『イーリアス』以後に成立した―これは現今のほとんどのホメーロス研究者の一致した見解である。この仮説に立って『オデュッセイア』の詩人による『イーリアス』へのほのめかし、言及、翻案、本歌取りといったことが問題になりうるとすれば、『オデュッセイア』は『イーリアス』を前提にきわめて意識的に創られた叙事詩ということになる。  『オデュッセイア』第8巻における楽人デーモドコスの第一歌(73‐82)「オデュッセウスとアキレウスの諍い」は、『イーリアス』が真正面から取り上げたトロイア戦争の―しかし『イーリアス』には直接には描かれない―その最初期のエピソードである。この第一歌は、『イーリアス』冒頭のアキレウスとアガメムノーンの争いを想起させ、武勇の英雄『イーリアス』の主人公アキレウスと知略の人『オデュッセイア』の主人公の対比を暗示する。

 デーモドコスの第三歌(500‐20)の「木馬の計略」はトロイア戦争最後の一齣である。オデュッセウス自らデーモドコスに木馬の話をリクエストする際に、トロイアは罠(ドロス)によって陥落したと強調する。そのような戦争観は『イーリアス』の英雄にはない。『オデュッセイア』の詩人は、トロイア戦争をより醒めた目で―アイロニーをもって見ていると言えるのではないか。この第三歌を聞いてオデュッセウスは打ち萎れて、涙は頬を濡らす。ここに添えられた第8巻523以下の比喩は、戦いの勝者を敗者の妻の姿に譬える。ここには『イーリアス』的な名誉に裏打ちされた悲惨の感覚とは違う、人間の悲惨をただそのものとして見る新しい人間感覚が見られる。

 第二歌「アレースとアプロディーテーの密通」は、トロイア戦争の初めを歌った第一歌と、トロイア陥落を歌った第三歌の中間に置かれている。ということは、この第二歌は、トロイア戦争を「アキレウスの怒り」という主題に凝縮して描いた『イーリアス』を暗示していると考えられないか。W. Burkert, Rh. M.103 (1960)は、第二歌の背後に『イーリアス』第1巻、14巻、20‐21巻が存在すると指摘する一方、『オデュッセイア』の詩人は、『イーリアス』から引きついだ神々のイメージを一篇の笑劇(第二歌)にまとめて楽人に語らせ、詩人自身の倫理的神観と区別した、とする。『イーリアス』における神々の世界(の喜劇性)と人間の世界(の悲劇性)は、一つの現実の対照的な構成要素をなす。この第二歌は、『イーリアス』的な神々をこのように集中して取り上げることを通じて、いわば同じコインのもう一つの面である人間世界をも暗示している、つまり『イーリアス』の世界そのもののパロディーとなっていると解せるのではないか。


〈気概〉の発達の諸相――プラトン『国家』の教育論

西尾 浩二

 プラトンが中期著作『国家』で本格的に導入した「魂の三区分説」(魂は理知的・気概的・欲望的の三部分からなるという説)に関して、とりわけ理論的位置づけが問題視されてきたのは気概(テューモス)・気概的部分(ト・テューモエイデス)であろう。この部分は他と区別された統一性を備えているのか、備えているならいったいどのように特定されるべきかという問題が大きな争点であった。困難の一因は多岐にわたる記述にある。怒りや義憤として発現する事例の列挙(439e6-440d3, 441b3-c3 etc.)、新生児や獣が気概に満ちているという記述(441a7-b3)、勇気の徳の座としての位置づけ(442a11-b3)、勝利を愛する部分・名誉を愛する部分という命名(581b2)等々。

だがこの問題については、今ではかなり共通理解が得られている。近年の研究動向は、従来みられた、統一性の説明を放棄するような解釈(Cornford, Hardie, T. M. Robinson, Pennerなど)を正しく斥けた上で、怒りの事例分析などに基づいて、気概的部分を何らかの価値評価や理想像、および自意識や自己の観念を含むという二点から特徴づけ、自尊心(self-esteem)もしくは自己主張性(self-assertiveness)として特定する方向(Cross & Woozley, Annas, Cooper, Reeve, Irwin, Mitchell & Lucasなど多数)に大きく傾いているのである。この方向性は誤っていないと思う。しかしながら、そのように割り出された気概的部分と養育・教育のプログラムとの関係については、ここで改めて問い直される必要があろう。新生児がもつとされる気概は、解釈者たちが 'raw feelings' (Annas), 'prototypical anger' (Reeve)などと呼ぶ原初的なものから、いったいどのような仕組みでさまざまに発達(あるいは堕落)してゆくのだろうか。この問いは、既述の主流解釈と、新生児や獣が気概をもつという記述との間にあるように見えるギャップを埋めるためにも、そして気概的部分の内実や理論的位置を十分に理解するためにも追求されなければならない。

 そこで本発表では、上に列挙した箇所と併せて、守護者の教育論(376 e2 sqq.)、名誉支配制的人間の分析(548d6-550c3)などテクストの関連箇所を調べ直し、(むろん残りの二部分にも触れながら)気概的部分の発達(堕落)の仕組みや、背景にあるプラトンの考えを探る。この考察は人間が社会化してゆく過程に関わるだけに、思想史的に重要であるだけでなく、現代にも有意義であろう。


「アキレウスの画家」の白地レキュトスにおける死者と生者

田中 咲子

 そもそも香油を入れる容器として作られた細長い胴部を持つ瓶、レキュトスには、器面を白地に塗ったものがある。これは前5世紀、葬儀の中で、あるいは埋葬の際の副葬品、展墓の際の供物としてなど、専ら葬礼において用いられた。用途がこのように限られていたため、器面に描かれる図の主題も次第に葬礼や死に関するものに集約されていった。例えば、遺体を安置した周囲で遺族が嘆く殯礼の図や、死者がヘルメスに伴われ、渡し守カロンの舟でアケロン河を渡る図などがそれである。しかし、白地レキュトス画の主流はむしろ次の二主題だった。まず、婦人部屋で女主人と侍女が墓参りの準備をする婦人部屋図。いま一つの主題は墓所での情景を描いた「墓辺図」である。これは墓石を挟んで二人の人物が向かい合う構図が典型的である。今回の発表で取り上げる「アキレウスの画家」は前5世紀第3四半期を中心に白地レキュトスを手掛けた。彼は、先ず前者、婦人部屋図を多く描き、やがて主として後者、墓辺図を描くようになった。発表では、彼の描いた墓辺図に注目して考察を進める。

 「アキレウスの画家」が白地レキュトスを手掛け始めた頃、婦人部屋図と墓辺図に変化が起き始めた。二人の人物のうち一方が死を想起させるようになったのである。婦人部屋図においては、女主人が物思いに沈むようになる。他方、墓辺図においては、二人のうち一方は展墓の品を手にし、依然遺族として描かれるが、もう片方は鎧兜に身を包んだり、旅装束であったりと、およそ墓参とは関係のない姿で登場する。人物の一方が死者であることを明示するようなシンボルが描かれることはまずないが、互いに見詰め合う目、そしてそれが醸し出す哀愁に満ちた静寂な雰囲気ゆえに、観者は絵図の背後に死という概念を意識せざるを得ない。では、このような場面はどう解釈すべきであろうか。

 ブショールを初め多くの研究者はこれを、生と死が融合したものであり、兵士や旅人の姿をした人物は、死者であると同時に生者でもあると解釈してきた。他方、劣勢ではあるが、別の見解もある。死者を既に他界した者、極言すると亡霊として登場しているという見方である。しかしこの説は余りに単純であるとして退けられることが多い。

 発表者は今回、一つの発見を手掛かりに、現在劣勢の見解、すなわち既に他界した死者が再び姿を現した場面とする解釈を支持したい。ただし、死者像を単純に亡霊と考えるわけではない。第一の手掛かりとなる発見に加え、白地レキュトス画の展開や同時代の悲劇の分析から考えられるのは、遺族と死者が出会うこのような図は、故人に再び会いたいと思いながら墓参りをする遺族の、実際には実現不可能である願いを絵画において叶えたものだということである。つまりレキュトス画という絵画世界において表わされているのは、墓参に来た遺族が墓所で故人に出会う場面なのである。


新喜劇の新奇な演技様式と、その再現可能性について

マルティン・チェシュコ

 「新喜劇」が登場した紀元前4世紀には、劇は広く普及しその人気も著しく高まった。従って、現存する文献や考古学的史料の種類や分量も数多くなっている。リパリのテラコッタ小立像のほか、仮面、壺絵、古典期以後のモザイク画など、演劇界の姿を興味深く反映する史料が、T. B. L. Webster, J. R. Green, L. Bernabo Brea, E. Handley, D. Wiles等、多数の学者の書物によって、容易に利用できるようになってきた。(特に、Monuments Illustrating New Comedy3 = BICS Suppl.50, London 1985、が基本的な参考文献とされてきた)。

しかし、上演を含む劇作法の研究には、こうした証拠の調査だけでは不十分である。史料を文献に照らし合せつつ、アテナイにおける身振りやその記号論的意味づけの変化、効果的なhypokrisisについての修辞学の教え、ペリパトス学派のcharakterと人相学の思想、また、ジェスチャーの学際的研究等も配慮しなければなるまい。

 本発表では、こうした様々な視点のシンクリシスにより、メナンドロスの役者がキャラクターを描写するために使った演技形式がどれほど再現できるか、幾つか具体的な問題を取り上げて論じたいと思う。

 政治的・経済的・社会的不安定のなか、外見や個人的表現習慣のような表面的な特徴が、性格や身分とどういう関係を持つかが、学者や一般人の興味を引いた、ということは4世紀の雰囲気の一つの特徴だろう。こうした意識に応じて、喜劇に現れるたった3人の役者が、新喜劇特有のキャラクターを演じ分ける技を洗練しなければならなかった。しかも、従来のどたばた喜劇でもなく、再上演される5世紀の悲劇の演技様式でもなく、リアル感と説得力がある新たなスタイルを作る必要性が一層強く感じられるようになった。様々な面から、新喜劇ははるかに自意識の強いテクニカルな技術の方へ移行せざるをえなかったわけである。

キャラクターの特徴を表すためには、特定の声色、身振り、手足のジェスチャーの固定化がいかに必要だったかを、具体的に論じたい。例えば、何人か異なった人物の声色を連続で使わねばならない科白部分が、演技の一つの山場として頻出するが、一人の役者がそれをうまく演じ分けるためには、その人物の一番特徴とされるところを反映しなければなるまい。すなわち、新喜劇の演技はよく「リアル」と評されるが、実際には、効果的で分かり易いパフォーマンスを狙い、かなり固定化された「しぐさのコード」をも取り入れていることを明らかにしたい。


「オデュッセウスの舟」の建造法と、艤装品 "hypozomata" について

丹羽 隆子

 (1) 近年発展した海底考古学の成果は多岐にわたる。地中海の海底から発掘された古代の沈没船30隻余の残存部分から、古代地中海の木造船の建造法も明らかになった。それは近代西欧世界が知る竜骨など骨組みから造り始める "skeleton-first method" とは逆の、船体から構築する "shell-first method" だった。この新知見によると、従来「筏」造りの場面と考えられていた『オデュッセイア』の一節(5.228-61)は、2世紀頃まで地中海世界で実践されていたらしい「ほぞとほぞ穴」で外皮板を接合する "shell-first method" に従い「舟」を建造する場面であることが解る。同じ "shell-first method" でも、きわめて精緻な「ほぞとほぞ穴」法は、エジプトの川船の「縫い合わせ」法(ヘロドトス『歴史』II.96)とも異なる。「オデュッセウスの舟」のヴァーチャルモデルをPC上で建造してみたい。

 (2) 前4世紀の「ピレウスの海軍目録」は三段櫂船艤装品の冒頭に4本の "hypozomata" を義務づけている(IG22 1627 49, 1631 671等)。だがその装着場所や方法は記されていない。J.S. モリソンらは "hypozomata" を比喩に用いているプラトンの『国家』(616bc)、『法律』(945c)、聖パウロの難破を語る「使徒行伝」の一節(27.17)の動詞 "hypoz0nnymi" の現在分詞などから、「"hypozomata" は船首から船尾へ船体の外側を縛る長いロープ」と結論していた(Greek Oared Ships 900-322 B.C.,1968, p.297)。ところが三段櫂船「オリンピアス号」復元過程でモリソンらは、"hypozomata" は船の内側に装着する艤装品であることを確認した(The Athenian Trireme,2nd ed. 2000, pp.195-98)。しかしなお、プラトンの著作や新約聖書の一節の "hypozomata" は船の外側を縛るロープのようにも解釈できる。また進水のとき「しっかり船を縛った」(『アルゴナウティカ』1.368-69)という「アルゴ船」の綱も、綱で縛られて城内に引き入れられる木馬を船に譬える『トロイアの女たち』の一節(538-39)の綱も、おそらく "hypozomata" であろう。三段櫂船は衝角で敵船に激突する喫水の浅い「長船」の戦闘船。聖パウロら276人が乗った船は船倉の深い「丸船」の商船。「アルゴ船」は前6世紀三段櫂船登場まで主流だったという一段ないし二段櫂船のうち、おそらく「ペンテーコントロス50人漕ぎ一段櫂船」であろう。"hypozomata" の装着目的は同じでも、場所や方法などは時代や船種によって異なったのではないか。"hypozomata" の意味は "under-girdle"。素朴に、舷側の上縁下外側全周を縛り「ほぞとほぞ穴」で接合した船体を締めることもあったのではないか。図像にも証拠を探りながら、これらを検証する。「オリンピアス号」が予備とする "hypozomata" 2本の活用場所も、材料力学的に報告したい。


『クラテュロス』再論

田中 利光

1.プラトンの作品『クラテュロス』における肝心な内容はなにか。

2.それは 389d4〜8、390d9〜e4 で述べられていることである。

3.しかしてそれは、「慣習的にわれわれに与えられている、もろもろの名前は、それぞれに[なんらかの仕方で]対応するイデアの名前を原範型とする 模造品すなわち似像である」ということである(以下この括弧部分をAと略称)。

4.もしわたしの誤りでなければ、下記の言説はAの含蓄を、具体的に、また極めて的確に説明してくれているものと理解する(藤沢令夫著作集 II 62〜6 3頁)。

5.またAの含蓄を理解するために『パイドン』102b1〜2(以下『パイドン 』氓ニ略称)と照らし合わせてみる。『パイドン』氓ヘAを含意しているで あろうか。わたしは含意していると考えている。しかし個別的事象の名前と イデアの名前は同じであるという誤解を生み出しかねない表現でもあると思う ( 以下この誤解を「同名説」と略称 )。

6.また更に『国家』596a6〜7 と照らし合わせてみる。同じ名前(tauton onoma)で呼んでいる多くのものごとのまとまりについて、ひとつのイデア を立てるということが言われている。当のイデアの名前は、先の tauton onoma といわれているonoma と同じ名前であろうか。同じといっても身分・資格は異なっているのであろうか。その点の確認はなされていない。もし前者だとすれば無限背進は避けられないことになろう。『パルメニデス』132a〜b2 は「同名説」のおかしさに対する注意を喚起しているのだと考える(ヴラストスの 'Self-Predication' assumption などを不当にプラトンに想定することから、また「分有」用語の不備から、「第三の人間」の議論として説明する説明をわたしは取らない。藤沢令夫著作集 II 121頁以下および135頁以下参照)。

7.上記著作集124頁以下における『クラテュロス』についての観察には不備があると思う。『クラテュロス』389A-B がなぜ「原範型−似像」の関係として記述する表現に本来は該当しないと思われる疑わしい例とされている のかわからない。また389d4-8、390d9-e4 をどうして落としているのかもわからない。また 389B9-C1、E3-390A1、390B1-2 をどうして「もつ」用語の例として挙げているのかもわからない。

8.以上、もしわたしの理解に誤りがないとすれば、『クラテュロス』は、『パルメニデス』と『テアイテトス』の間に位置づけることができるのではないか。