日本西洋古典学会第52回大会研究発表要旨 ------------------------------------------------------------------------ ヘラクレイトスの魂論 −断片36における魂概念の生理学的解釈をめぐって− 木原志乃  ヘラクレイトスは、断片36において、自然学的な魂把握の流れを継承しつつ、魂を 水や土へと物質的に変化するものとして語っている。これまでの断片36解釈では、ヘ ラクレイトスの魂が質料的な火や空気に置き換わるものだと見なされたり、あるいは 終末論的に死後の魂の変化のようなものがそこに想定されてきた。魂を質料的な火や アイテールとみなすG. S. カークを代表とした解釈、さらに魂を空気とみなすC. H. カーンの解釈は、ともに魂の質料的側面を強調しつつマクロコスモスの自然学的変化 の中で断片36の魂の変化を捉えている。しかしそのような解釈では、火や空気と魂の 関係を、あるいは身体とその外部の自然学的変化の中での魂の生成消滅を、断片36の 言明 に即したかたちで説明できていないのではないだろうか。魂の生成変化には 「火としての魂」と原火という二つの火の関係や、「空気としての魂」と火との関係 を不明瞭なままに想定すべきではないであろう。さらに、魂を一つの質料と同一視し たり、超越的実体と同一視したりする限りは、他の断片で示唆された倫理的・認識的 主体としての魂との関係もまた見落とすことにもなるであろう。  本発表では、断片36での自然学的変化をミクロコスモス内の生理学的変化(すなわ ち血液、肉や骨への相互変化によって魂が成り立つということ)として解釈する立場 に立って、物質的位相におけるヘラクレイトスの魂概念を再検討したい。ヘラクレイ トスが「湿り気」を生への養分として理解している点、「魂の死」という現象を有機 体内の生と死との統一性という観点から捉えている点をいくつかの断片において確認 したうえで、ヘラクレイトスの魂概念が、身体を離れた「生命力」としては想定され てはいなかったこと、むしろ(「自己」として個をとりまとめる魂概念にも連動し た)「身体的結合力」として理解すべきであることを断片36の解釈を中心に明らかに したい。  元首政期の小アジアにおけるローマ軍兵士 − 属州民の嘆願碑文を手がかりとして − 柴野浩樹  三世紀以降の属州社会ではローマ軍兵士のプレゼンスがかつてなかったほどに実感 されるようになり、とりわけ小アジア一帯では、兵士による属州社会への圧迫・専横 を告発した嘆願碑文が二世紀末以降急増する。彼ら兵士はそれまで都市自治の範疇で 遂行されてきた行政領域へと滲透し、その強権的性格ゆえに住民から忌避されたので ある。彼らを皇帝権力の強制装置として理解し、都市自治に立脚した統治構造から古 代末期強制国家への移行期、いわゆる「三世紀の危機」において重要な役割を果たし たとする従来の研究にとって、これらの碑文は多大な史料的論拠を与えてきた(嘆願 碑文は P. Herrmann, Hilferufe aus r嗄ischen Provinzen [Hamburg 1990] に整理 されている)。  しかしながら今日の研究状況は古代末期を強制国家と規定する理解に重大な疑念を 提示しており、これらの碑文を「三世紀の危機」という時代状況に単純に当てはめて 理解すべきではないとする論調を生み出している。従来の研究はこのような兵士を属 州行政および軍制の枠内で理解する視座を欠いていたが、これらの碑文はときに事件 の背景をも伝える長大なものであり、このような視座からアプローチを試みる上で格 好の史料たりうるのである。  本報告では、小アジアの一連の嘆願碑文を主な手がかりとし、かかる兵士を属州行 政の枠内で捉え直すことを目的とする。彼らはローマ軍制上、総督や高官に直属する 下僚団(オフィキア)の一員として一般兵士とは区別されていたのであり、それゆえ 彼らには都市上層がある程度参入していたことを報告者は以前主張した。かかる視点 に立てば、従来対立的もしくは一方向的に把握されてきた彼ら兵士と都市自治との関 係は、より複雑で相互的なものであったと考えられるのである。以上の検討を通じ て、三世紀という重要な時代を理解する一助としたい。 アムピトリュオーンの重装歩兵論 ―エウリーピデース『ヘーラクレース』190-194― 浜本裕美  エウリーピデース『ヘーラクレース』において、アムピトリュオーンと王権簒奪者 リュコスが重装歩兵と弓兵の優劣を巡って争論を行う。リュコスが、重装歩兵を称揚 し弓兵ヘーラクレースを貶めるのに対し、アムピトリュオーンは、弓兵を賞賛し重装 歩兵戦術の難点をあげる。本発表が取り上げるのは、アムピトリュオーンの重装歩兵 を巡る論議(190-194)である。ここには複数の問題が含まれ、いまだ説得的な解釈は 見られない。第一に、複数の校訂者が191-192行を194行の後に移動するWilamowitzの 提唱を受け入れるが、この行の入れ替えは正当か。第二に、なぜアムピトリュオーン が重装歩兵戦術を非難するのか。このことが問題となるのは、重装歩兵戦術が単なる 戦術に留まらない意味を担いうるからである。というのは古典期アテーナイにおい て、重装歩兵は市民共同体の理念的な担い手として表象され、その理念的な姿は弓兵 を代表とする軽装兵との対置を伴った。したがって重装歩兵戦術を非難することは、 それが体現するとされる市民共同体の諸価値をも否定することに通じるのではない か。  本発表は、当該箇所の再検討を通じ、彼が非難するのは、重装歩兵戦術それ自体と いうよりも、それの存立を危うくする「臆病な重装歩兵」であることを論じる。この 分析を通じて写本の行の順序を擁護した上で、本劇において彼の論議がいかなる意味 を持ちうるのかを考察する。具体的には、リュコスとテーバイに内乱を惹起した彼の 仲間が臆病な「重装歩兵」として非難されることを指摘し、これに対抗するコロスと アムピトリュオーンが「重装歩兵」としてあるべき姿を取ろうとすることを確認した い。加えて、以上の考察が、従来当該箇所との関連が論じられてきた、ヘーラクレー スが自殺の決意を翻しテーセウスの申し出を受ける場面の理解に新たな観点を導入す ることにも触れたい。 力としてのデュナミスと質料としてのデュナミス―アリストテレス『形而上学』Q巻 における2つのデュナミスについての一考察 茶谷直人  デュナミスとエネルゲイアを主題としたアリストテレス『形而上学』Q巻では、力 (能力)と可能態という、ないし力と質料という2つのデュナミスが導入され、大ま かにはQ巻前半で力が、後半で可能態ないし質料が論じられる。そして力と可能態の 異同や関係が、特にこうした区別自体の妥当性やQ巻での一連の議論の整合性をめぐ り、解釈上しばしば問題とされてきた。力と可能態とを排他的な意味上の差異と捉え つつ、区別の失敗と両デュナミスの混同とをアリストテレスに帰す解釈がRoss以来伝 統的だが、両者を意味上の差異ではなくデュナミスの2つの用法と捉え議論の混乱を 回避するFredeの理解等も近年見られる。本発表はこうした解釈上の問題を踏まえつ つ2つのデュナミスの内実と差異を検討し、その際、「最も有用な訳ではない」 (1045b36)と言われ解釈上も軽視されてきた感のある「力としてのデュナミス」に 特に光をあてる。  本発表では、力と可能態という区別は排他的差異ではなく真に対置されるべきは運 動に対する<力>と実体に対する<質料>という2つのデュナミスである、という基 本的視野のもと、2つのデュナミスをそれらの関係と共に検討する。特に力としての それについて、当の運動における外在的力として客観的・第三者的に捉えられるこ と、またその概念自体には可能性という様相の含意はないことを、Q1,3を中心とする 分析から示したい。そしてこの分析と、Q6を中心とする検討から、力と可能態ないし 質料という2つのデュナミスの差異を、「下からの積み上げ(bottom-up)」と「上 からの下降的規定(top-down)」とでも言うべき対照的なパースペクティブに見出 し、両デュナミスが対等の位置にあることを示す。以上の考察に伴う仕方で、<力― 運動>と<質料―実体(形相)>という2つのデュナミス―エネルゲイア図式がアナ ロギアによって一挙に見られる、というQ6での独特な議論の性格にも触れる。 ヒスパニアの都市法典 ―法律の中の都市のイメージ― 志内一興  スペインで近年、重要なラテン語碑文の発見が相次いでいるが、その中でも特別な 関心を集めているのが、1986年に Journal of Roman Studies 誌上で初めて公刊され た「イルニの都市法 Lex Irnitana」である。スペイン南部で発見され、その内容か ら1世紀末、ドミティアヌス帝時代のものであることが分かっているこの碑文 は、 既に19世紀以降同じくスペイン南部で出土し、そして広く知られている断片的ないく つかの都市法の字句をその一部に含んでおり、結果、単一の法律がこの地域に一律に 適用されていたことが明らかとなった。  この法律に関しては既に多くの研究が生み出されており、例えば d'Ors や Galsterer 等は、従来カエサルによって制定されたと考えられていた、ローマ帝国全 域の都市を規定する法律 'lex municipalis' の存在について激しい議論を展開して いる。また都市とそこに住む 人々の法的地位に関しても新たな議論が生まれ、既に 日 本でも島田誠氏が1996年に『東洋大学紀要』において詳しい紹介を行っている。 その他にも多くの研究が発表されているが、これまでの研究の関心は都市の行政、裁 判制度、都市住民の法的地位など、主に制度面、法律面の問題に集中しているように 思える。  そこで本報告では、残存する部分だけでも千行にも達するこの法律が、ローマ帝国 に現実に生きていた人々について、またローマ帝国の支配のあり方を解明するための 鍵となる意味を持つ「都市」の姿について重要な手がかりを提供してくれているとい う観点からの分析を試みる。単一の法律が広い地域に一律に適用されていたにもかか わらず、そこには必ずしも全都市には適用可能とは言えない規定が含まれていること に注目し、これらの規 定の検討を通して、この法律が理想的なローマの都市、社会 のイメージを運んでいたことを指摘したい。 アリストテレス『詩学』十三章と十四章との筋構成論 ──『オイディプス王』の評 価と『イピゲネイア』の評価── 渡辺浩司  『詩学』十三章と十四章との二つの個所においてアリストテレスは、優れた悲劇が 有すべき筋構成について論じている。ところが二つの筋構成論は、それぞれ性格の異 なった悲劇作品に第一等を与えている。すなわち、十三章は、不幸な結末を持つ悲劇 (『オイディプス王』)を第一等とし、十四章は、幸福な結末を持つ悲劇(『タウリ ケのイピゲネイア』)を第一等としているのである。この不一致を解消するためにさ まざまな説明がこれまで提案されてきた。十三章と十四章とは、それぞれ別の問題を 論じているとか、あるいは、十三章と十四章とは、それほど重大な齟齬をきたしてい るわけではないとか、あるいは、アリストテレスの心変わりがこの不一致をもたらし たとかである。しかしながら、十三章と十四章とのこの不一致は、余りにも単純すぎ て、これまでの諸説によって充分に解消されているとは思われない。本発表は、十三 章と十四章とのこの不一致を解決しようとするものではない。むしろ、十三章と十四 章との不一致をもたらした原因を『詩学』の筋構成論の中に求め、『詩学』の理論と 悲劇作品との隔たりを確認し、『詩学』の理論が悲劇喜劇の別を超えて広く劇一般の 論となっていることを指摘するものである。まず、諸解釈を通覧したのちに、十三章 と十四章とが主題を同じくしていることを確認する。そして、にもかかわらず、十三 章と十四章とが結論を異にするのは、道徳性と理解可能性という二つの点から悲劇本 来の性質が制限されたためであると主張する。最後に、十三章と十四章との筋構成論 は劇一般の論となる可能性のあることを指摘する。 いわゆる「葬儀組合」について 坂口 明  ローマ帝政期に存在した様々な組合において、メンバーが会費を出し合って基金を つくり,仲間の葬儀の世話をするという活動は、かなり頻繁に見られる。19世紀のな かばに、ローマの組合についての本格的な研究の先鞭をつけたモムゼンは、法史料 (Dig. xlvii.22.1pr.)に現れるcollegia tenuiorum (卑賎なものたちの組合)を、 葬儀を目的とする組合collegia funeraticiaと解し、さらにラヌウィウムの「ディア ナとアンティノウスの礼拝者たち」の団体に関する碑文(CIL xiv.2112)を援用しな がら、このような組合には、元老院決議によって全般的な許可が与えられていたとし た。このモムゼンの説はその後最近にいたるまでおおむね受け入れられ、キリスト教 会もこのcollegia tenuiorumの名目で合法的に活動できたとする主張もなされた。 1982年にアウスビュッテルは、この説に対して全面的な批判をおこない、collegia tenuiorumは、とくに貧しいものの団体ではなく、元老院議員の公職者の団体や神官 団と区別された一般人の組合であったこと、collegia funeraticiaという特別なカテ ゴリーはなかったこと、collegia tenuiorumを一括して認可するような元老院決議は なかったことを主張した。この報告では、まずこの問題についての検討をおこなう。  ただし、仮に「葬儀組合」という特別なカテゴリーはなかったとしても、とくに宗 教団体の中には、葬儀のための互助組合という性格を強く持っていたものも多かっ た。このような団体の構成や活動について、中世の兄弟団(コンフレリ)とも比較し ながら具体的に検討する。 アリストテレスにおける感情と説得 野津 悌  『弁論術』1巻1章で、説得の本体はある種の推論であるとし、聴き手の感情に訴 える説得を批判したアリストテレスが、同書1巻2章では、一転、感情に訴える説得を 積極的に認めている。『弁論術』冒頭部分に見い出されるこの食い違いは当然解釈者 の注目を引き、議論を呼んできた。  この食い違いは、ある解釈によれば、1章が著者の初期に特徴的な理想主義の 反 映であるのに対し、2章が著者の後期の一層現実的な態度に基づくものとされ、発展 史的に説明される。また、発展史的見方を採らない別の解釈によれば、1章は弁論術 の理想型を析出するための思考実験の文脈、2章は弁論術の現実型を規定する文脈、 であるとされ、この食い違いは文脈の相違のうちに解消される。だ が、両解釈の間 に大差はない。両者は、アリストテレスが「感情に訴える説得」を本質的に不正な手 段であるとみなしつつも弁論の実効性の為に最終的にその使用を容認せざるを得なか った、と考える点で、共通の前提に立っているからである。しかし、問われるべきは この前提なのではないか。  本発表においては先ず「感情が判断を左右する」(cf.1378a20-21)といわれる事 態の内実を問うことで、「感情に訴える説得」が正しい説得のために寧ろ積 極的な 役割を担うことを明らかにし、「感情に訴える説得」は本質的に不正な手 段である という前提にアリストテレスが立っていない点を示す。次いで「本題から外れたこと を語る」(cf.1354a22-23)といわれる事態の再検討を通じて、本来正しい説得のため に積極的な役割を果たすはずの「感情に訴える説得」が時に糾弾すべきものへと堕し てしまう原因を明らかにする。以上の考察に基き、最終的には、『弁論術』1巻1章で 批判されているのは「感情に訴える説得」の堕落形態に過ぎず、そのような説得その ものの全否定を含意してはいない、という解釈を呈示し、上述の食い違いを解消して みたい。 ヘレニズム期の彩色墓碑試論 中村 るい  ギリシアのヴォロス美術館収蔵の「ヘディステの墓碑」 (紀元前3世紀)は、テッサ リア地方デメトリアス・パガサイ遺跡出土のヘレニズム時代の彩色墓碑のうち、最も 複雑な構図をもち、これまで絵画史研究者の論争の的となってきた。この墓碑は、ヘ レニズム絵画の空間構成や、ギリシア葬礼芸術の認識への再検討を迫るものである。 その図像は、墓碑銘にも記されるように、産褥の床で息をひきとった若妻の図で、図 像の意味と奥行きある空間表現について、統一ある見解は出されていない。一般に墓碑 には、根本的に相反する二つの面、すなわち、1)肉親の死を悼む私的感情の表現 と、2)公的空間に設置する公の標示物としての側面、がある。この二面を念頭に 「ヘディステの墓碑」がギリシア葬礼芸術の伝統において、どう位置づけられるかを 考察する。   本発表は二部よりなり、まず、ギリシア葬礼芸術(特に、アッティカ浮彫墓碑と 白地レキュトスを含む彩色陶器の伝統)において「ヘディステの墓碑」が占める位置 を検討する。つぎに、当墓碑に表現された産褥死の図像を、当時の社会の価値観の反 映という点から検討する。古代ギリシア社会において、女性の産褥死は、男性の戦場 における死と比肩する、最も名誉ある死の形態だったと推測される。この名誉ある死 を効果的に表現するため、特定の時間と空間が描写されたと考える。墓主ヘディステ を、「プロテシス」(いわゆる「遺体安置」:仏教における「通夜」と類似した儀 式)以前の、息をひきとった直後の時間において、また、奥行きある写実的な空間内 に描いている。それはクラシック美術の目指した普遍性ではなく、ヘレニズム美術に みられる特殊性への偏向の一端を示すものであろう。   結論として、本稿では「ヘディステの墓碑」を単に感情的で私的な記念碑とみる のでなく、当時の社会の名誉ある女性像のイメージが、公的空間に演出されたものと 考える。 *発表ではスライド使用の予定。 プロティノスEnn,VI-6『数について』に於ける「有」と「知性」の順序を巡って 金澤 修  『ティマイオス』(30c-d,39e)の解釈に際して、プロティノスが「二通りの言い方」 をしていたことは、既にプロクロスによっても報告されている(In Platonis Timaeum Commentaria)。それによると、Enn, III-9で、「有」・「生物」に次いで三番目の序列と なっていた「知性」が、Enn,VI-6では、「有」に次いでニ番目の位置を与えられていると いうのである(Ibid, cp.8)。では、Enn, VI-6に於けるニ番目という「知性」のこの順 序は、どのような理由に基づいているのか?その手がかりとなるのは、当該作品で、 知性界の論理的な成立という観点の許で数の位置付けを考察するに際してこの解釈が 提示されていることにあると思われる。従って、序列の理由の考察は、必然的にプロ ティノスの行った数の考察へと移行することになる。数はまず「計測」や「述語づけ」の 類比から、知性界を構成する存在者の多数性の根拠として、存在論的に先行すると理 解される(Ibid, cp. 4. cp.5)。しかし数が多数性の根拠であるということは、数自 身の多の根拠は他の多なるものには求められず、「(一なる)有」以外には求められな い。一から多を導出しなければならないのだ(Ibid, cp.9)。この導出を可能にするた めに、プロティノスはここで「力」という道具立てを数に与える(Ibid,cp.9)。数の持 つこの「力」とは、それが展開する以前は「一」として有の中にあるが、それが一度展開 すると、「有が運動する際に従うところ」(Ibid, cp.15)となり、多なる存在者を成立 させるという。知性は、このような「力」を持つ数と重ね合わせられる故に(Ibid, cp.9)、「有が運動する際に従うところ」として、その運動の結果として成立する多な る存在者や「(完全な)生き物」よりも、論理的に先であると考えられる(Ibid, cp.15)。これにより「知性」は、「有」に次ぐが、「生物」より前という位置を得るのであ る。本発表では、Enn,VI-6での「有」と「知性」の順序に関して、多なる存在者の根拠で ある数を問題の核にして考察する。 カロス・タナトス、アンティゴネの目指したもの 吉武純夫  Soph.AntigoneのAnt.は禁止された兄の埋葬をして死ぬことをkalonなことだと宣言 し埋葬を試みるが、結局は地下幽閉され首吊り自殺する.地下牢へ連行される彼女の 嘆きをどう解するかを含め、Ant.の死はどう評価されるべきなのか、これまで綿密な 考察を施されてこなかった.本発表は,通例戦死を表すkalos thanatosという概念が 使われていることに着目し、彼女が目指したものを明らかにして、彼女の直面した現 実との落差の意味を考察しようとするものである.  彼女は72で現在分詞を用い、「埋葬しながら刑死すること」がkalonなことだと言 うが、一見奇妙なこの表現は戦死を賞揚するトポスに沿ったものである.ここで彼女 は「死ぬまで埋葬行為をしたい」という熱意を表しているのであり、また「果敢さを 証しする刑死」を受容れようとしているのだと解しえよう.ところがKreonは投石刑 を取止め、Ant.をすぐには死なせない.コンモスで彼女が嘆いているのは、自分が死 ぬことではなくちゃんと死なされないことなのである.食いしろ付の地下幽閉という 処遇は、kal.than.を目指している彼女には受容れ難いジレンマをつきつける.彼女 の自殺はこのジレンマを脱出する行為であり、自身の受けた処分をirrevocableなも のにする行為として読むことができる.  彼女の退場後、その死は顧みられない.劇は彼女の死が無駄死であり、lobeである ことを暗示している.ただ結末近くでKreonが逃避的に死を熱望することは、Ant.が 全く対照的な動機から死を熱望していたことを思い起こさせる.確かに彼女は eugenes(38)に相応しい果敢さと熱意を持っていた.しかし彼女は女として非暴力的 な戦いをする他なく、kal.than.を達成することはできなかった.この劇は、己の使 命に命を捧げるという熱意と果敢さを持ちながらも命を燃焼し尽くすことが叶わない という彼女の苦難を描いている. ラケスはなぜ論駁されたか 田中享英  ソクラテスの対話について私たちはまだ多くのことを誤解しているのではないだろ うか。たとえば、ソクラテスはひとに問いを問いかけるだけで自分では答えようとし ないとか、相手を論駁してばかりいて自分は論駁されたことがないと、私たちは思っ ていないだろうか。  プラトンの『ラケス』のソクラテスは「勇気とは何か」という問いをラケスとニキ アスに問い、かれらの答えをつぎつぎに論駁して二人をアポリアに陥れる。かれらが 論駁されたのは、たしかに、かれら自身の意見どうしの矛盾が明らかにされたからで はある。しかし注意深く見ると、このときソクラテスは巧妙な仕方で、ラケスの意見 の中にソクラテス自身の意見をこっそりとすべりこませているのである。  ラケスが論駁されたのは、かれが、勇気は「思慮をともなった心の強さ」であると いったんは答えておきながら、値上がりを知っていて投資しつづける投資家や自陣の 戦略的優位を知りつつ戦う戦術家の心の強さは勇気と認めず、むしろ不利な陣営にあ って戦う兵士や潜水術の知識なしに深い水に潜る人の心の強さを指して勇気があると 主張したためであった。ところが前の「思慮をともなった」という限定句は、ソクラ テスの誘導によって、いつのまにかラケスが認めさせられてしまったものであり、実 はソクラテス自身の主知主義の思想なのである。つまり二つの矛盾した言論の一方 は、実はソクラテスの言論であり、こうしてソクラテスはいわばカッコウの託卵のよ うなやり方で対話相手にかれ自身の意見を抱かせ、それがどこまで生育できるかその 成り行きを見届けようとする。かれの言論は、さらにニキアスによって継承されて生 き続けるが、結局は別のアポリアによって挫折する。こうしてソクラテスは、実はソ クラテス自身の言論を吟味していたのである。 ------------------------------------------------------------------------ 学会ホームに戻る