訳者からのメッセージ

朴一功・西尾浩二:プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』

哲学の入門書

 今から7、8年前、大学の2年生対象の授業で『エウテュプロン』をテキストに使ったことがある。きっかけは、ちょうどその頃、この作品の翻訳の話をいただいたことだった。関連資料をいくつか読むうちに、この著作についてのある有名な論考の冒頭一行目に、「『エウテュプロン』は学部生に与えて哲学の訓練の初期に読ませるとよいかもしれない」と書かれているのが目に留まった。親しみやすい対話形式で書かれたプラトンの著作のなかでも、とりわけ短く、しかも単純な作品に見えながら、いくつかの重要な哲学的問題を含んでもいる。これなら哲学書をあまり読んだことのない人にも、難解な用語、錯綜する議論といった重い負担をかけることなく、哲学の問題に触れてもらえるのではないか。そう考えて、この対話篇をいわば哲学の入門書として、授業で使うことに決めたのである。その判断は間違っていなかったと、今でも思っている。現にこの著作は、海外(英語圏)では、哲学の入門的な授業のテキストとしてよく用いられるとも伝え聞く。

 『エウテュプロン』はもっと読まれてよい作品である。しかし、日本語訳が非常に少ないため、一般にはほとんど読まれていないのが実情といってよいだろう。『ソクラテスの弁明』や『クリトン』の日本語訳は多数出ているのに、『エウテュプロン』はというと、プラトン全集はともかく、選集や文庫本にこれを収めたものがほとんどない。なぜか省かれてしまうのだ。ところが、海外(英語圏)では状況は異なる。これら三つの作品は、ときに『パイドン』も加えた四部作として、ほとんどの場合、セットで翻訳出版されている。たとえペーパーバックであっても、『エウテュプロン』を省くのは、むしろ稀なのである。こうした形で世に出る翻訳の多さもまた、この対話篇が教室で使われやすい一因となっているかもしれない。

 『ソクラテスの弁明』と『クリトン』は古典の名作であり、法廷や獄中で語られるソクラテスの言葉には、読者の心に訴えかける力がある。そこから浮かび上がる、哲学者(知恵を愛する者)としての彼の「生き様」も、感動的である。だから両作品が日本語訳で多数出ているのは当然かもしれない。だが、それらに劣らず、『エウテュプロン』でソクラテスが繰り広げる哲学的な議論も、たいへん面白く、また重要なのである。裁判前の緊迫した状況にもかかわらず、いつもと変わりなくユーモアや皮肉をまじえながら、丹念に議論を進めてゆくソクラテスの姿は魅力的である。今回、それをギリシア語原典に即して正確に、しかも読みやすい日本語で再現することを目指した。論理を辿るために欠かせないギリシア語の「小辞」の微妙なニュアンスも、きちんと翻訳するようにと心がけた。プラトンの入門書、あるいは哲学の入門書のつもりで読んでいただければと願っている。

 私の授業では、少々欲張って、『エウテュプロン』の議論を起点に、プラトンの他の対話篇、さらには近現代のいくつかの哲学書にも手を伸ばした。そして、そこに含まれる哲学的問題(ものの「本質」を認めるかどうか、倫理的性質をどうとらえるか、道徳と宗教の関係、等々)について、学生たちとともに考え、議論した。ときには、正義、死、幸福といった問題にまで、議論が飛び火することもあった。『エウテュプロン』は、学生たちにとって、哲学の入門書の役割を立派に果たしてくれたように思う。

西尾浩二(大谷大学)

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翻訳と原文のあいだ

 私がはじめて『ソクラテスの弁明』を読んだのは、岩波文庫の久保勉訳によってである。今から40年以上も前の、大学初学年の頃である。その時の印象は鮮明に残っている。やや古めかしい文体の翻訳がかえって心地よく、特に最終部で、ソクラテスが自分に無罪の投票をしてくれた人たちに向かって死について語るところがあるが、その場面にとても心が動かされたのを、今でもはっきりと記憶している。心が動かされた、というよりも、洗われた、と言う方が正確かもしれない。

 その後、プラトンの作品をいくつか読み、当時、さまざまな事情から哲学を勉強しようと思っていた私は、専攻を西洋古代哲学に定めた。哲学のおおもとを知りたかったのである。それまで関心が外に向いていた私は、怠け心(臆病?)を一掃して、ようやく古代ギリシア語の勉強を始め、四苦八苦しながら古代哲学の演習や講読の授業に出席した。演習は藤澤令夫先生の『ポリティコス(政治家)』の授業だったが、講読は、文学部で助手を務めておられた今林(現、金山)万里子先生のご担当であり、その授業で『メノン』に続いて、はじめて私は『ソクラテスの弁明』をギリシア語の原文で読んだのである。今林先生は藤澤先生から、学部の学生を鍛えるようにという「厳命」を授かっておられた。学生のギリシア語文法の知識があやふやだったからである。私にとって文法はむずかしかったが、原文を読む楽しさが上回った。ソクラテスの肉声が聞こえてくるような気がしたのである。同時に、原文を少しずつ読むことによって、ソクラテスの発言の論理性に気づかされた。文章のつながりを説明しながら、「アポロギア(『弁明』)はむずかしいわね」と、今林先生も、静かな口調で言われたことがある。

 だが、ソクラテス裁判を描いた『弁明』を読む場合、他の困難がつきまとう。歴史的な事実をある程度知らなければならないからである。今回の翻訳ではこの点にできるだけ注意を払い、関連事項を註に記した*。しかしそれ以上に、翻訳そのものの問題がある。議論の筋道を辿ってゆく哲学の作業では、用語に特に留意する必要がある。鍵となる古代ギリシア語と近代語、ないし日本語とのあいだに、場合によってかなりのずれが生じるからである。「哲学」という訳語そのものがそうである。幕末から明治初頭にかけて西周(1829-1897年)によって熟慮され、考案された「哲学」という新しい日本語、儒学の伝統に基づきながら、儒学との峻別を意図するこの翻訳語には、原語「ピロソピアー(φιλοσοφία)」の「ピロ(φιλο, 愛する)」の意味が落とされているからである。「学」という表記も問題である。ソクラテスの知恵を求める対話活動は、いわゆる「学問」研究ではないからである。

 とはいえ、翻訳語であれ原語であれ、一つの言葉の奥行きとその命は、その言葉が語られる文脈にあり、使用法にある。ソクラテスの語る言葉の意味は、たとえ日本語に移され、多少のずれが生じることになっても、その論理と力点の強弱から読みとることができるはずである。その読みとりにはいくつもの可能性がありうるが、この点は、ソクラテスのギリシア語を当時のギリシア人が聴きとる場合も同じであろう。どのような翻訳も、それが原文の筋と響きをしっかり捉えているなら、原文との隔たりは、実はさほど大きくないと言わねばならない。欧米はもちろんのこと、日本でも『ソクラテスの弁明』のギリシア語原典は、大正時代にまで遡る久保勉訳だけでなく、今日まで多くの訳が試みられてきた。『クリトン』についても同様である。それぞれに特色があり、訳語の正確を期し、原文の文意の忠実な再現を目指している。私もそれを目指した。とりわけギリシア語になじみのない読者に、現場にいるかのように読める翻訳、日本語を語るソクラテスがギリシア語を語るソクラテスであるような翻訳、これを届けることができていれば、と不安まじりに願う。既訳が多いなか、今回の訳出作業にあたって編集部から求められたのは、「臨場感あふれる翻訳」であった。

朴一功(大谷大学)

*本書刊行間際に、註のなかで貨幣換算の誤りが見出されました(69頁註(1):「二分の一ムナ」(誤)→「二〇〇分の一ムナ」(正)、「その一〇倍」(誤)→「その一〇〇〇倍」(正))。出版会サイトに、より丁寧な正誤表が掲載されていますので、あわせてご覧頂ければ幸いです。当時の裁判員の日当(3オボロス=小家族1日分の食費程度か?)は、かなり安かったことになります。読者のみなさんにお詫びするとともに、誤りをご指摘くださった藤田大雪氏に改めてお礼申し上げます。

書誌情報:朴一功・西尾浩二訳、プラトン『エウテュプロン/ソクラテスの弁明/クリトン』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2017年8月)