著者からのメッセージ

坂井建雄:ガレノス『身体諸部分の用途について1』

 ガレノスの解剖学書の翻訳としては、『ガレノス 解剖学論集』(2011)を京都大学学術出版会の西洋古典叢書の1冊としてすでに刊行しており、今回の『身体諸部分の用途について1』はそれに続くものである。訳者は解剖学を専門とする私(坂井)に加えて、ギリシャ古典を専門とする池田黎太郎氏、科学史を専門としギリシャ語・ラテン語と解剖学も解する澤井直氏が担当している。ガレノスの解剖学の文書は、後世にきわめて大きな影響を与えたことが知られているが、これを解読し翻訳するのは一筋縄ではいかない難事である。古典ギリシャ語を読解する能力と、解剖学についての詳細な知識が求められるからである。ガレノスの解剖学文書の解読のための3人の協力は、10年以上にわたって続いている。

 ガレノスの『身体諸部分の用途について』は17巻からなり、第1巻は第1回のローマ滞在(162-166)の間に、第2巻以後は第2回ローマ滞在(169以後)の間に書かれている。この書物ではサルの解剖によって明らかにされた身体の構造をもとに、人体のさまざまな器官の役割を論じており、中世・ルネサンス期の医師に最も広く読まれた著作の1つである。その内容はまず、不完全なアラビア語訳および簡略版の『体部の有用性De juvamentis membrorum』としてヨーロッパに伝えられ、完全なギリシャ語原典は14世紀初頭に発見されてニッコロ・ダ・レッジョNiccolo da Reggioにより1317年にラテン語に訳された。

 ガレノスの解剖学文書の翻訳は、医学史の研究に大きな影響を与えている。先の『ガレノス 解剖学論集』では、骨、静脈と動脈、神経、筋などについての各論的な文書を訳したが、それによって解剖学の歴史における各時代の医師たちの評価が大きく変わってしまった。私の『人体観の歴史』(岩波書店、2008)はガレノスの解剖学文書解読の成果を踏まえて、解剖学書の原典に基づいて書き下ろした解剖学の歴史である。

 16世紀のヴェサリウスは、自ら人体を解剖してガレノスの解剖学の誤りを指摘し、権威の書物ではなく人体こそ探求すべき対象であることを示し、近代医学の創始者としばしばみなされる。しかしこの古典的な評価が実は大きな誤りであることが、ガレノスの解剖学書の解読から明らかになった。たとえばガレノスの「神経の解剖について」では7対の脳神経を扱っており、その第3対と第4対は現在の三叉神経(第IV脳神経)に相当するが、その走行は充分に確認されておらず記述に大きな誤りがある。ヴェサリウスの『ファブリカ』では、そのガレノスの脳神経の記述がほぼそっくりそのまま画像化され解剖図となっている。ガレノスの解剖学の記述は驚くほどに詳細かつ正確であり、ヴェサリウスの解剖学の内容は99%がガレノスの記述そのままと言っていいほどである。

 さて4分冊での刊行を予定している『身体諸部分の用途について』であるが、これについてはガレノス由来とされる3大臓器と脈管の説との関係が注目される。これは、肝臓で作られた栄養に富む静脈血が静脈を通して全身に、動脈の左側で作られた生命精気に富む動脈血が動脈を通して全身に、脳底の怪網で作られた動物精気に富む神経液が神経を通して全身に分配されるというもので、ハーヴィーが発表した『心臓と血液の運動について』(1628)の血液循環説によって否定された。これによりガレノスの権威がひっくり返されたと評され、医学史においても有名なものである。しかしこの有名な3大内臓と脈管の説が、ガレノスの著作のどこに書かれているかは特定されている訳ではないが、『身体諸部分の用途について』と密接に関係していることは疑いがない。この著作の第4-5巻では肝臓を含む腹部内臓、第6-7巻では心臓を含む胸部内臓、第8-11巻では脳を含む頭部の器官が扱われている。3大内臓と脈管の説が整理された体系的な形で述べられているとは考えにくいが、その素材となるような見解がどのように著作の中で扱われているかが、大いに注目されるところである。

 ガレノスの医学についての理論が、アラビアの医学に取り込まれる際に整理されて体系化され、フナインの『医学問答集』やアヴィセンナの『医学典範』などの形でその後のヨーロッパの医学に伝えられたことが、明らかにされつつある。中世以後のヨーロッパでも広く読まれた『身体諸部分の用途について』を、3人の訳者もわくわくしながら解読を進めているところである。

坂井建雄(順天堂大学大学院医学研究科教授)

書誌情報:坂井建雄・池田黎太郎・澤井直訳、ガレノス『身体諸部分の用途について1』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2016年11月)
坂井建雄・池田黎太郎・澤井直訳、ガレノス『解剖学論集』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2011年12月)