著者からのメッセージ

丹下和彦:エウリピデス『悲劇全集5』

ギリシア悲劇とその素材

 ギリシア悲劇はその素材をギリシア民族に古くから伝わる神話伝承に負っている。ギリシア悲劇の最盛期は前五世紀の後半で、その時代の大半がペロポネソス戦争というギリシア内戦の最中であったがゆえに、上演作品は当然ポリス・アテナイの政治、経済、また軍事の面からの影響をもろに受けている。そしてまた当然ながらそこに暮らす市民の精神活動(しかも戦時下のそれ)からもそれ相応の影響を受けた、いや受けたはずである、いや受けずにはいなかった。つまり、そうした中で年に一度春三月下旬にアテナイのディオニュソス劇場で上演されたギリシア悲劇は、素材としての神話伝承を忠実に模倣し繰り返すだけに留まるものではなく、現実の複雑な時代性を、いや何よりもまずその時代を生きている人間の生活、ことに精神生活の在り様を逐次色濃く反映していると、いや、せざるを得なかったと見なしてよい。ただしかし、その「反映」とはどういう態のものだったのか。

 たとえば少女の痛ましい死がある。それが作家の魂を揺する。それを作品化して広く江湖に問いたい、そのためにそれを劇詩にしてディオニュソス劇場の舞台に乗せたいと思う。問題は次だ。作家の意図にうまく適合する素材が神話伝承の中に見つかるだろうか。前五世紀末、戦時下アテナイの場末の庶民生活の中に見つけられた悲劇的現象――痛ましい少女の死――は、神々や英雄たちが登場する場、神話伝承の中にも、うまくそれに相当するものを、その体現に耐えられるものを見つけることができるだろうか。いや、そもそも若くして痛ましく死ぬ少女はいつでもアガメムノンの娘イピゲネイアでなければならぬのか。そしてその死はつねに生贄によるものでなければならぬのか。たとえ裏町の庶民の娘Aであっても。

 また内戦下の戦場での、たとえば若者の無念の戦死といった事例が、ホメロス描くトロイア戦争の一連の記述の中にうまく見つかるだろうか。相応するものが見つからぬままに、せっかく見つけた事例――人間的真実として普遍化できるもの――を、ギリシア悲劇という場に乗せることを諦めざるを得ないことも、ひょっとしてあるのではないか。

 作家――発信能力を有する観察者あるいは思索家――は、自ら見つけ出した人間的真実を表現する場を持つことができれば、幸せである。しかし古代ギリシアの作家たちは、表現する場を朗詠や演劇という形式および場でしか許されない。演劇の場合であれば、その場が劇場であるという制約がまずある上に、さらに素材は古来の神話伝承に限られている。悲劇制作の実際の場では、素材としての神話伝承の優先権は絶対的で、たとえいかにそれが悲惨であれども、巷の一介の少女の受難と死はギリシア悲劇として舞台に上らせることは不遜かつおこがましく、許されざることなのである。ギリシア悲劇は、神々と英雄たちの事績を通じて民族の栄光を謳い上げ、広く江湖に誇示すべきものであり、かつまたそれは時代の変遷に捉われない確固不変の伝統奉賛事業なのだ。

 しかし必ずしも全的にそうだと言えないことは、時代により、また作家によってその素材との向き合い方が微妙に異なっていることからも、いささか窺うことができる。たとえばアトレウス家にまつわる夫殺し、母親殺しの悲劇は、同じ素材を用いながら三大作家それぞれで違う意味内容をもつ作品に仕上がっている。それは、まずは時代精神の反映であり、かつまた作家の個性の表出具合によるものでもあるが、これこそ表現者としての自由度がそこに認められている証左、と言ってもよい(ただしあくまで素材は神話伝承である)。

 とはいえ、神や英雄の世界はいつまでも表現者としての自由を保障してくれないだろう。時代が進み、社会が複雑化し、例えば戦乱などによって人間の生活が破壊されたり流動化したりしてくると、神話伝承の中にその事態を的確に受け止める場がなくなってくることもありうる。殺害事件はいつの場合も「王位争いにまつわる復讐」という概念で処理できる、とは限らない。そして時代が進捗する中で出来するさまざまな悲劇的事件が従来の神話伝承の場で処理できなくなれば、そしてディオニュソス劇場の石舞台の上に乗せることができなくなれば、従来のとは違う新しい表現の場、表現の方法が案出されなければならない。そのはずである。

 しかしながら演劇に代わる芸術表現の場が直ちに見つかるものでもない。作家がその見解――時代認識も思索の成果も――を一度に万余の市民に訴えることができる場、方法は、当時ディオニュソス劇場以外にまだ見つかってはいなかった。朗詠や上演に代わって作者がその見解を市民各個に伝達できる、たとえば「書物と読書」という手段、場は、前五世紀末という時点では存立していなかった。悲劇作家はいかに意あれども、創作の素材は伝統的な神話伝承に頼り、表出の場、方法はディオニュソス劇場での演劇というかたちでの上演という形式による以外に仕様がなかったのである。しかし、いかにそれが果敢なものであっても、神話伝承という素材に対する「作家の眼、解釈」だけではどうしても処理できない事態が生じてくる。神話伝承に代わる新たな素材と演劇上演に代わる新たな表現方法が求められる時代が、いずれ訪れて来て当然だろう。

 エウリピデスは意あれど場を得られず苦悩し続けた人、つまり素材と乖離しすぎる現実を素材が要求するままに舞台化せねばならぬことに苦悩し続けた人、であったように思われる。

丹下和彦(大阪市立大学/関西外国語大学名誉教授)

書誌情報:丹下和彦訳、エウリピデス『悲劇全集5』(京都大学学術出版会西洋古典叢書、2016年6月)