古典学エッセイ

佐藤孝志:アテネの女性たちは悲劇を観たか?

1 初めてギリシア悲劇を観たのは、昭和34年5月の日比谷公園野外音楽堂でのことであった。東京大学ギリシア悲劇研究会の第2回公演『アンティゴネー』である。学生自身による、当時も今も極めて野心的な活動というべき、この企ては前年の『オイディプース王』から始まっていたが、学力不足で大学受験浪人中の私は、残念ながらこれを見逃していた。

 先王オイディプースの娘アンティゴネーには二人の兄があり、二人で交互にテーバイの王位を継ぐとの約束が守られなかったため、兄同士の争いが生じ、一騎打ちの末二人はともに倒れてしまった。他国の支援を得てテーバイに攻め入った方の兄の亡骸を、敵方の屍を葬ることを禁じた新国王の命令に反してまで埋葬して、死罪に処せられたアンティゴネーの勇気ある行動には感動させられた。このような作品を創り出した悲劇詩人ソポクレスの存在や古代アテネの文化水準の高さそのものにも驚きに似た尊敬の念を持った。さらには創作とはいえ、こういう女性が描かれるということは、当時の現実のギリシア社会にも、このようなしっかりした女性がいたのではないかと思ったものである。

 この悲劇公演は毎年観ていたものの、超勤、超勤の連続で土日もゆっくり休めない官庁を職場にしていたため、そのうちに足が遠のいて行ったが、この公演活動自体は昭和45年頃に終ったようである。

 私はその後郷里(富山県高岡市)の友人たちに引っ張り出され、官庁を辞して市長選に出、幸いにして16年間市長職を勤めた。この仕事をしていると、とにかくよく講演を頼まれる。私には皆様にご披露できるような面白い話の種がないので、自分がそれまで楽しんできたギリシア悲劇や古代ギリシアの歴史・政治などを題材にして話すことが自然と多くなった。折から始めての市長就任間もない平成2年より、岩波書店のギリシア悲劇全集の刊行が始まり、これから素材を得ることも出来た。なお、それまで親しんできた悲劇全集の人文書院版4巻が、ちくま文庫の全集4巻に引き継がれているのもありがたい。

2 ところで、古代ギリシアの代表的なポリスのアテネでは、一年を通じて数多くの祭礼がポリスの主催行事(国家行事)として行なわれていた。何よりも個々人の自由と平等を大事にする市民は、一方においてポリスの各種の宗教的な祭礼に参加することによって、ポリス社会の一員であることを自覚し、能動的にポリスの営みに関わっているとの意思を持ったようである。

 オリュンポス12神には入っていない酒神ディオニュソスの祭礼としては、大ディオニュシア祭(都市のディオニュシア祭。ブドウの木の生長を祝う祭りで、3~4月に開催)やレナイア祭(ブドウ酒の醸造を祝う祭りで、1~2月に開催)などがあった。大ディオニュシア祭では悲劇競演会(後に喜劇も)が、また、レナイア祭では喜劇競演会(後に悲劇も)が、夫々ポリスの主催で開催された。これらの競技会のもつ社会的意味は、競技会そのものに参加した演劇関係者については、演劇の創造・上演活動を通じて、創造の喜びを得ながら、ポリスは自分たちの協働によって作っていくものであるとの市民意識を一層高め、一方、一般市民については、観劇を通じて、作品の中に込められた思想や人間の生き方に共鳴したり、あるいは感動・情感を共有したりすることによって、同じポリスに住んでいるという自分たちの精神的一体感を更に高めていったことにあろうと思われる。

3 悲劇にしろ、喜劇にしろ、ポリス社会の中で大事な役割を果たしている、こういう面白い演劇が、古代アテネなどの当時の男性、女性の双方に楽しまれていたかと言うと、いまだに説が分かれているようである。

 先ず、前5世紀のアテネでは、女性は地位が極めて低く、男性市民と同じような政治的、社会的な権利は認められておらず、また、人前に出ないで家の中に閉じこもるべき者であるとされていたので、祭礼を見物したり(女性だけの祭りテスモフォリア祭は別であろうが)、祭礼行事の悲劇や喜劇を観劇することは許されていなかったとする説がある。これは、どうやら女性が夫以外の者との子供――特に男の子――を産むのを防ぐためであったのではないかと言われている。

 ペロポネソス戦争が始まった直後の前431年から430年にかけて行われた戦没者追悼式において、当時のアテネの執政者ペリクレスは、「この度、夫を失うことになった人々に、婦徳について私から言うべきことは只一つ。女たるの本性に悖らぬことが最大の誉れ、褒貶いずれの噂をも男の口にされぬことを己の誇りとするがよい。」と述べている。(岩波文庫久保正彰訳、トゥキュディデス『戦史』上巻234頁)

 悲劇作家エウリピデスも、『トローアデス(トロイアの女たち)』の中で、当時のアテネにおける婦徳なるものを基にしてか、亡くなったトロイア軍の総大将ヘクトールの妻アンドロマケーに、「わたしは、世間でいう女の道とやらを、懸命に守ってきました。まずはじめに女が家をあければ、てきめんに悪い評判がたつものですが、私はそうしたい気持ちを抑え、ひたすら家にひきこもっていました。」と述べさせている。(水谷智洋訳、岩波ギリシア悲劇全集7巻160頁)

 もともと女性は、当時殆どの生活必需品が家の中で生産されていたので、いつも家の奥深くにあって、糸つむぎ、布織り、粉引きその他の家事に自ら従事し、また、これらの仕事をする召使(女奴隷)の監督をしており、普段家の中に閉じこもっていたのはそのとおりであろう。(もっとも喜劇などには、家庭の中では、妻は真の主〔あるじ〕で、強力な采配を振るう「肝っ玉母さん」であったように描かれている。この辺の事情は古今東西変わらぬ真理のようである。)

 男性優位の社会において、当時の女性が政治・行政から排除されていたのは止むを得ないとしても、およそ政治・行政に関係のない祭礼を見物したり、祭礼時に催された悲劇や喜劇を観たりすることまで、果たして本当に出来なかったのであろうか。

 オイディプース王は自分の真実を知って自らを盲目にした後、実の母を妻として儲けた二人の娘に、「おまえたちにも私は涙を流す。(おまえたちが)人々からどんな仕打ちを受けながら暮らさなければならないかと。どんな市民の集まりにおまえたちが出られるだろうか、どんな祭りがあるだろうか、見物どころか、おまえたちが泣きながら家へ戻らなくてすむような。」と述べている。(岡道男訳『オイディプース王』ギリシア悲劇全集3巻97頁) 祭りの見物が女性にも出来たことが前提となっており、この点については問題はなかろう。

 アリストパネスの喜劇のセリフの中には、女性の観客の存在を前提にしたようなものがある。先ず、次のくだりを見てみよう。

トリュガイオス 「それから観客たちに大麦を投げてやれ。」
奴隷 「ほら」
トリュガイオス 「もう投げ与えたのか。」
奴隷 「はい、ヘルメースにかけて。観客たちのうち誰も、大麦を持たぬ人がいないようにしましたよ。」
トリュガイオス 「ご婦人方は受け取らなかったぞ。」
奴隷 「でも夜に彼女たちには夫たちがあげるでしょう。」
(佐野好則訳『平和』岩波書店ギリシア喜劇全集2巻172~3頁)

 大麦には卑語として男性器の意味もあって、なかなか機智あふれる遣り取りである。

 また、コロスのセリフの中に、観客に向かって言うこんなものもある。

「皆の衆、申し上げておくが、市民の方の誰一人にも嫌なこと一つ言うつもりは毛頭ない。┉┉┉┉さあみんな、男の衆も女の衆も言ってくれたらよい、もしもお金が入用だと言うなら、2ムナーでも3ムナーでもわが家にあるから。」(丹下和彦訳『リューシストラテー(女の平和)』ギリシア喜劇全集3巻81頁)

 ギリシア喜劇は猥雑だから女性には観劇が認められていなかったものの、悲劇の観劇は許されていたとする説があるようであるが、その喜劇自体にもこのようなセリフがあるのをどのように考えればよいか。

 ギリシア三大悲劇詩人の一人のアイスキュロス伝は、アイスキュロス作の悲劇『エウメニデス』を観ていた女性が女神の余りの恐ろしさに流産し、子供も気絶したとのエピソードを伝えている。

 また大分後になるが、アテナイオス(後2~3世紀の随筆家)は、アテネの人気の政治家アルキビアデース(前450頃~404年)が「合唱隊長(悲劇のコロスの費用を負担する合唱隊奉仕者)として劇場に臨む時は、紫染めの服を着用し、行列を組んで入場し、男たちからも女たちからも賛嘆された。」と記している。(岩波文庫柳沢重剛訳アテナイオス『食卓の賢人』282頁)

 プラトンの『法律』(658A-D,817B-D)、『ゴルギアース』(502D)には、観客の中に女性がいたことを窺わせるような記述もある。(もっとも、これらは女性の観劇の有無を直接に記すものではなく、例えば、法律658A-Dでは、クレタ島内における新国家建設のアドヴァイザーたる「アテナイからの客人」が、叙事詩、叙情詩、悲劇、喜劇、操り人形などの競技会を行った場合にどのような判定が行われるだろうかと設問し、これに「極めて幼い子供が判定するとすれば、操り人形を演じたものを勝利者とするでしょう。しかし、もう少し大きい子供なら、喜劇を演じたものを勝利者とするでしょう。だが、教養ある婦人や若い青年たち、おそらく大衆の殆ど全ての者なら、悲劇を演じたものを勝利者とするでしょう。」と自ら答えるというものである。)(岩波文庫森進一・池田美恵・加来彰俊訳「法律」上105頁)

 女性の観劇そのものを直接に証明するような文献はないのであるが、以上のような所謂状況証拠から、女性の観劇も許されていたとする説が出されている。私もこの説を支持したい。 (私はこの点で、陶器画に女性の観客が描かれているものでも見つからないかと、かねてから期待している。)

 アリストテレスは悲劇論の中で、「悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現であり、(リズムと音曲を持った)快い効果をあたえる言葉を使用し、┉┉┉┉叙述によってではなく、行為する人物たちによって行われ、「あわれみ」と「おそれ」を通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。」と述べている。(岩波文庫松本仁助・岡道男訳アリストテレース『詩学』34頁)  アリストテレスはカタルシスそのものについては説明していないが、悲劇を観て涙を流したり、恐怖を味わったりすることで、人々の心の中の「しこり」を浄化することであると理解されている。つまり人々の精神的な癒しとなることであると解される。

 当時のアテネの女性も家庭内や隣近所・親族などの間でいろいろと苦労している筈であり、女性が一切観劇も許されないとすれば、彼女たちの心が癒されないばかりか、日頃のフラストレーションが高まるばかりではなかろうか。祭礼時の各種催しを心待ちにし、また、実際これに接する時に味わう、あの浮き浮きした・晴れ晴れとした気持ちは恐らく古今東西共通の感情であると思われるが、当時の賢明な男性ならこの辺の事情を理解し、女性の祭礼見物や観劇ぐらいは快く許容したのではないかと思われる。更に、市民たる女性は、ポリスの政治に参加する権利は認められていなくとも、祭礼やその催しに参加することによって自分たちも実際にポリスの一員であることを一層自覚するようになったのではなかろうか。

 ギリシアの悲喜劇には、ソポクレスの描くアンティゴネー、アリストパネスの描くリューシストラテー(長びくペロポネソス戦争に痺れを切らし、他の女性と語らって断行するセックス・ストライキによってアテネ・スパルタ間の和平工作を講ずる。)のような魅力ある女性にあふれている。このような女性は創作の世界の人物であるにしても、女性観客の存在を前提にすれば、より共感の得られる女性像として浮かび上がってくるような気がする。

佐藤 孝志