コラム

松本仁助:デルポイの驚き、1969年

 デルポイで驚いたこと、と言っても、そこでの風景の美しさ、アポロン神殿の壮大さ、人々の素朴な生活のことなどではない。それは、日本では大学紛争が燃え盛っていた最中の1969年9月25日~10月4日の10日間、ギリシアで第一回国際人文学懇話会が開かれた時のことであった。

 欧米を中心とした古典学者たち45名がアテネの[キングスパレス・ホテル]に集合し、開会式が行なわれた。この懇話会へのアジアからの参加者は、松平先生と私の二人だけであった。翌日アテネでアクロポリス及び考古学博物館を見学し、夜は、アイスキュロスの『テバイへ向かう七将軍』を観劇した。

 翌27日、朝8時にデルポイへと移動し、昼12時半に目的地に着き、宿泊予定の「ホテル・アマリア」で旅装を解いた。我々は、デルポイの芸術大学の講堂で行なわれた研究発表の開会式に出席した。研究発表は翌28日から始められ10月1日まで続いた。

 研究発表終了後、10月1日の午後から、研究発表参加者とその夫人たちは、ヴォロス、ナウプリア、ミュケネと見学し、ミュケネでは、有名なミロナスの説明を聞き、10月4日にアテネに帰り、その日の8時半に散会した。

 ところで、アテネの開会式では、ギリシア人文学会会長のアテネ大学古典学名誉教授コンスタンティノス・ヴールヴェリスが開会の挨拶を述べたのであるが、この挨拶は現代ギリシァ語でなされ、10分毎に彼自身の英訳が述べられたのである。彼は、デルポイでも、研究発表が始められる前の挨拶を述べたのだが、その時は独訳をつけた。

 研究発表者の国籍は、ギリシァ、フランス、イギリス、ドイツ、チェコスロバキア、ロシア、スイス、アメリカ、オーストリア、オランダ、スペイン、スェーデン、日本であった。そして、ギリシア人、ロシア人、オランダ人、アメリカ人、イギリス人、スエーデン人、日本人の松平先生は、英語で、それ以外の人たちは母国語で、私はドイツ語で発表した。それぞれが発表した後、質疑応答がなされるのだが、ドイツ人の発表者がドイツ語で発表した時、質問に立ったのが、アメリカ人で、英語で質問した。これにたいして、ドイツ人は、即座にドイツ語で返答していたので、感心しながらも、米独の間では、そうだろうな、と納得していた。だが、フランス人のフランス語の発表にたいして、スペイン人がスペイン語で質問したのに、フランス人がフランス語でこたえていたのには、驚いてしまった。

 そして、こういったことがロシアとスェーデン、オランダとチェコスロバキアなどのあいだでおこなわれたのである。しかも、これは、研究会の間だけでなく、懇談の場でもなされていた。考えてみれば、古典学者は、ヨーロッパの国々の古典学に関する文献を調べなければならないから、それらの国の言葉に通じているのも当然と言えるかも知れない。それにしても、それを目の前にすると、我が身の現代ヨーロッパ語学力の貧弱さに較べて彼らの能力の素晴しさに驚嘆するのである。

 しかも、それは、彼ら自身だけでなく、同伴の奥さんたちが、食後の団欒において、おなじように言葉をかわしていたのである。

 私は、ドイツにおいての二度目の滞在中であったが、そのままドイツにおれば、このような経験はできなかったであろう、と思う。そして、このことは、私にその後の語学習得にたいして、より厳しい心構えをさせる切っ掛けになった。

松本仁助