座談会「日本西洋古典学会発足の頃」への補遺

田中美知太郎先生・生活社・古典学会
兵藤正之助

 田中先生について書くなど、およそ資格のないぼくだが、記憶に残る二つのことがある。

 まず第一は、昭和二十三年三月のある日、先生の研究室においてのこと。座につくや言われた。
「今日、君は学生としてかね、それとも編集者として来たのかね」
「はあ、それは、西洋古典学会のことがあったものですから……」
「う、よし、それじゃその前に、学生の君にひとこと言っとくかな。……こないだのぼくの試験、君も受けてたね。あれは全般的にひどい出来だったよ。君もその一人だったが」

 つまらぬ私事からはじめて恐縮なれど、一寸註を加えよう。この折のぼくは京大哲学科の学生であると共に、生活社という東京の出版社の京都支社、責任者でもあった。

 それ故の冒頭の問いとなったわけだが、この頃、戦時中から『ギリシャ・ラテン叢書』というやや大きい企画の下に、主に東京、京都の学者に執筆を依煩し(その数は四十名をこえていた)、青木巌訳『ヘロドトス・歴史』、同『ツキュディデス・歴史』を手初めに十点前後の訳書を出していた生活社は、昭和十七年九月より同社の準専任社員となったぼくに、京都在住の叢書担当の先生たちを巡回すること、及び二十二年ごろから醸成しはじめた西洋古典学会設立のための事務的なことに力をそそぐことを指令していた。

 ためにぼくは田中秀央、落合太郎、原随園といった方々をはじめ古典関係の人々を次々とお訪ねしていたが、二十二年の九月から京大に来られた美知太郎先生のもとには、たびたび参上ということになっていたのである。

 ちなみに右の『ギ・ラ叢書』(ぼくらはそう呼んでいた)は、ぼくが杜と関わる前に発足し、十八年のある日、京都楽友会館に関西方面の二十数名の担当者に集っていただき、東京から来た谷本打多雄という編集者の司会で一席の会合がもたれたりもした。恐らく時局柄、刊行の先行きに不安を抱かれたかもしれぬむきに、社としての確かな意志をお伝えするためであったろう。

 田中秀央(ばくは十七年九月、この方が主任教授であった西洋古典文学科の選科生となっていた)、落合太郎の両先生がたばねの役であった。(東京方面は高津春繁、呉茂一先生ではなかったか。)

今回この稿のために古い日記を逐一読み返したが、月報掲載の「『西洋古典学会』発足の頃(2)」に記されている以外、これといって補足できるようなことは見当らなかった。

 ただ戦後になって、松平千秋、野上素一、村田数之亮、泉井久之助、長沢信寿先生(この先生の『キケロ・友情・老年論』刊行がぼくの社における初仕事だった)や、神戸大に五十嵐先生を、はては上京の折、藤沢に呉茂一、東大に高津春繁先生をというように、精力的にお訪ねしている記録を見ながら思うことは、あるいは正確でないかもしれぬが、『ギ・ラ叢書』の所用でまわっているうちに、ふとどなたかの談話に、「学会」設立の希望のようなものが出たことを契機に、本社と打ち合わせの後、事務的な面ででの促進方を自らにうけもつことになったのではないかということである。

 たしかに松平先生が「発足の頃」にのべられている「学会設立趣意書」の印刷や発送の手配をしたのは、この頃、社のアルバイトになった柳沼重剛さんとぼくとであったし、さらには松平先生の言葉通り、「創立の打ち合せ会」が二十三年一月七日であったことが、ぼくの日記にも記されているからである。

 学会設立をめぐるいきさつについて、これ以上書けぬのは残念だが、余計なことを一つつけ加えるならば、京都の百万遍養源院での「打ち合せ会」に、後に比較文学研究の草分け者の一人となられた、まだ壮年の頃の島田謹二氏が、恐縮の態で小室の隅に坐っておられたことだ。どなたかが誘われたのか、あるいは設立に関して相当広範囲に呼びかけられたためのことであったか、その辺りのことは不明であるが。

 余計なことをさらに記すと、前述した田中先生の「ギリシャ哲学史」の試験(昭23・2・23)での鮮やかな記憶に、先生の「注意」があった。用紙配布直後、こう言われたからである。「余分なことは一切書かぬように。例えばトルーマンとあったら、ただひとこと、アメリカ大統領でよろしい」

 苦笑した学生すべては問題を見て、「やられたあ」と思ったのが多かったのではないか。なかでも「余分なこと」の一字も書けぬものに、「天体音楽」というのがあった。まっとうなことも大方わからぬため、「可」を頂戴したぼくの答案が「ひどい出来だった」ことは言うまでもない。

 最初に先生のお宅にお訪ねした折のことだった。談たまたま京都の古典関係の先生のことに及んだ時、曰く、「来たばかりだから、これからしばらくは、お手並み拝見というところだ」

 言外にしたたかな自信が感じられた。

 このことを他に話したところ、返ってきたその人の――「それは田中さんが文理大から助教授という、いわば格下げで京大にむかえられたことへの余憤だね」という言葉と共に、奇妙に記憶に残っている。

 ところで、当時大中小とある出版社の中で、恐らくは中と小との中間ぐらいのものだったと思われる生活社について、ここで少しふれておこう。

 ぼくが初めて東京は須田町、木造二階建の本社に行ったのは、丁度「横浜事件」で『中央公論』や『改造』の編集者が検挙された翌日であったから、昭和十九年一月三十日ということになる。

 鉄村大二社長、前田編集長(ともに早大出身、四十歳前後)をはじめ、編集の主だった人々が、事件をめぐって、さらには社としての今後について深刻な面持で鳩首、数時間に及んでいた。

 同社は東京画報社という出版社の社員だった鉄村氏と前田氏(彼は敗戦後、北海道のある小村の村長になったときく)が中心に設立したもので、ぼくが関わった頃は、『ギ・ラ叢書』と『生活選書』及び中国、東南アジア関係の本を出していた。アジア関係書は誤植・ミス多く、本つくりが粗雑という不評をうけていたが、『生活選書』は、例えば『ヴァレリーの世界』、『歌舞伎』などをはじめ、戦時色にぬりつぶされていた出版物の中では、『ギ・ラ叢書』と並んで注目されていた。この『選書』、ぼくの知る限りでも二十点を超えていた。

 ある日、京都に来た社長と執筆者まわりをしたぼくに、彼は言った。「岩波茂雄がね、うちにやってきて、君のこの椅子にぼくが坐るから、君には岩波でぼくの代りをやってもらおう。もう、出来あがった会社なんて面白くないからなって、冗談まじりに言っていたよ」と。

 これはこの頃の大方の生活社評価を代表するようなものではなかったか。

 なお刮目に値するものに、『日本叢書』があった。福島鋳郎の『戦後雑誌の周辺』(昭62 筑摩書房)によって、改めて記憶をよび起された、この『叢書』は、福島も言うように、「日本の戦局が悪化し、雪だるま式にふくらんで敗戦への坂をころがり始めた昭和二十年四月、B6判、三二ページの小冊子」として「登場し」た。福島は丹念に一〇〇冊までの書目と著者名をあげているが、いずれも当時、各界の錚々たる執筆者たちを網羅していた。

 そして書目を一覧して、すぐわかるのは、二十年四月から二十二年五月までの間という時期に出されていながら、戦争、敗戦の影が少しも感じられぬものが、ほとんどを占めていることだ。一、二をあげると、二十年八月二十日刊の小宮豊隆『芭蕉と紀行文』、同年十月、谷川徹三『茶の美学』、二十一年八月、向坂逸郎『科学の道』といったふうであった。ちなみに田中先生もこのシリーズで『愛国心について』(二万部)『言論の自由について』(二万部)を出しておられる。

 出版人の大いなる見識の生んだものと言えよう。

 またどの本も、みな部数は一万二万三万であり、なかには呉茂一『ぎりしあの小説』(昭20・12)は五万、阿部次郎『万葉人の生活』(昭20・11)に到っては七万などとあり、それらが紙その他もろもろの出版事情の極度に悪かったなかで、毎月三ないし五点と続刊されていた。

 まことに偉観であったろうと言う他はない。それらは出版の条件獲得に総力の傾けられたことにもよるであろうが、何よりも特筆できるのは、新聞紙一枚を折りたたむのみで三二ページとし、活字に飢えていた読書人に、現在で言えば週刊誌よりやすい値段で、国鉄駅の売店などでも売るという企画が、時宜にかなったものであったためでもあった。

 ぼくも中の幾人かの京都在住の執筆者をまわり歩いたのを想起する。この『日本叢書』は、出版情勢が徐々に旧に復すると共に打ち切られたが、これによる執筆者のつながりは、それからの刊行に当然生かされ、二十一、二年ごろは、谷崎潤一郎、京大に復帰された滝川幸辰氏(『研究の自由』が出た)らをはじめ、にわかにぼくの訪問先も多方面へと増えていった。エピソードめいたことを一つ書くならば、二十一年の九月ごろであったか。谷崎のところにいって『痴人の愛』を本にする承諾を取れ、印税は一割五分、部数三万(五万だったかもしれぬ)、刊行は十二月はじめということで。すべて0・Kとなり、やがてこの頃編集者の仕事だった検印押しにでかけた。三万にしても、 何時間かかったろうか。終りごろは肩が異常にこり、辛じて手を動かす始末。傍で終始、スコッチをすすめながら、何かと饗応してくれた美しい和服姿の松子夫人の顔もおぼろになるような有様だった。いまは昔、忘れやらぬ記憶である。ちなみにこの折の利益金は、社員のボーナスとなった。それ故に「がんばれ」という指令だったのである。

 閑話休題。

 こうした名企画を発案した鉄村氏は二十一年六月二十日、急逝され、出版に素人の実兄真一氏に引きつがれたが、中規模の出版社となった生活社は、戦後駿河台の文化学院と同じ建物内の社屋に移り、これまた切れものの佐々木良雄という編集長のもとに、小島輝正(のちに仏文学者、故人)を加え、例えば『職工事情』上下の復刻といった珍らしい刊行物を次々と出して可成りの隆盛期に入りもした。

 ぼくがたまたま本社にいったある日は、共産党議員の三十五名当選の報にわきたっていた折であったが、終日、中村元(宗教)、手塚富雄(独文)、小場瀬卓三(仏文)というような人々が、絶えず社を出入されていたことなど、そのことを如実に物語るものであった。

 しかし、企画性はありながら財政面の放漫さのため、二十四年九月倒産ということになり、「発足の頃」にもあるように、社と西洋古典学会との縁は切れた。

 終りを田中先生に関する二つ目の記憶で結びたい。

 たしか昭和四十年代のある年ある日、ぼくは偶然、神田の東京堂書店の店内で、久しぶりに先生にお会いした。

 先生はふたこと三こと話された後、雑誌のおいてある場所に、ぼくをいざなわれ、
「君が、むかし骨を折りかけた学会誌も、こんなになったよ」
 と、岩波書店刊の西洋古典学会機関誌を手に取って言われた。

 おぼえていて下さったことのうれしさと、声音のあたたかさが、お別れしたあとも、しばらく快よく残っていた。

(文芸評論)

出典:「田中美知太郎全集」第25巻月報(筑摩書房、平成2年2月)

 この文章は「インタヴュー 『西洋古典学会』発足の頃(4)」と同じ月報に収載されていたものであるが、座談会参加者の発言を側面から補うばかりでなく、戦中戦後の出版界の事情を伝えて興趣尽きぬものと思われ、ここに再録する。

 なお、兵藤正之助氏(1919-1995)の著作権継承者の方を探しています。お心当たりのある方は学会HP運営委員会(mitto@clsoc.jp)までご連絡いただけると幸いです。